あるところに、一人の男がいました。男に妻はなく、母親も父親も幼い頃に亡くしていた為、もう男に家族と呼べる者は一人もおりませんでした。
「なぜ我が家は皆早死してしまうのだろう」
両親が生きていた頃に聞いた話では、二人の親もまた早くに命を落としたそうでした。
しかし、男に不満はありません。何故なら、亡くなるその時まで二人は存分に愛情を注ぎ育ててくれたからです。父親の背中は逞しく、母親はまるで天女のように優しく美しい存在でした。
「今の生活に不満はないが……時々淋しいと感じてしまいます」
山の麓にある小さな祠の前で、男は毎日語りかけます。勿論返事など返ってくる筈もなく、何を祀っている祠なのかさえ、男には知る由もありませんでした。
「このまま独りで老いていくと思うと、どうにも心が苦しくなるのです」
今日はいつもよりも心がずんと重く、暗い気持ちで溢れかえっているようでした。
「わたしはこのままで良いのでしょうか。両親に恥じぬような人生を送りたいと常々思っているのですが……」
男が何か言い知れぬ恐怖に支配されようとした、その時でした。
突然眩い光が辺り一面に降り注ぎ、一人の女が姿を現しました。
「貴方はとても頑張っていますよ」
女はまるで天女のような笑みでそう言うと、男の頬に手を伸ばしました。
男は何か言いたそうに口を動かしますが、声にならず、ただ涙を流すだけです。男は女の声と表情にとても懐かしいものを感じていました。
「あなたは一体……」
やっとの思いで出たのはその一言のみ。
女は男の頬から手を離すと、質問には答えずこう言いました。
「私が貴方の家族となりましょう」
突然の申し出に男は驚き、大きな身振りでそれを拒否してしまいました。
「あ、あなたのような美しいお方がわたしのような者と家族になど、恐れ多い事にございます」
慌てる男とは対象的に、女は変わらず微笑んだまま優しい声で続けます。
「いいえ、貴方こそ私の家族に相応しい方なのです。何故なら、神の子もまた神の子だからです」
男には女の言っている意味がよく分かりませんでしたが、その声を聞いている内に、先程までの黒々とした気持ちが消えているのに気が付きました。
「本当にわたしがあなたの家族として相応しいのかは分かりませんが、拙いながらも、一緒に家族として歩んでいけたらと思います」
男がそう言って手を差し出すと、天女のようなその女は優しくその手を掴んだのでした。
「構いませんよ。一つ難点を挙げるとするならば、神の子は皆早死するという事くらいでしょう」
私だけ皆に見えていないみたい。まるで透明人間。話の輪に入れない。たまに優しい人が声をかけてくれるけど、うまく話を繋げない。申し訳ない気持ちになる。
つまらない人間でごめんなさい。ノリが悪くてごめんなさい。声が小さくてごめんなさい。目つきが悪くてごめんなさい。
全然そんなつもりはないのに、睨んでいると言われる。気を抜くと真顔になってしまうので、なるべく笑顔でいるように心掛けているつもり。つもり……なのだけど、気が付くと怖い顔になってしまっている。鏡を見てハッとする。
ああ、なんで生きているんだろうと、毎日思う。いっそ本当に透明人間になれたらいいのに。
ふと自分の指先に視線を落とすと、透き通って見えた。目の高さまで持って来て、よく目を凝らす。向こう側が見えるのは決して気のせいではない。その内に手の甲、手首、やがて腕全体が透明に変わった。
驚きよりも嬉しさが勝った。
透明人間になれたのだ!私だけの世界に来れた。これで周りに迷惑をかける事もないし、もう言い訳を探さなくて済む。
とはいえ急に行方をくらますのは、それはそれで迷惑なのではないか。
念の為職場に行ってみたが、何処にも私の痕跡は無かった。思い切って上司や同僚に挨拶してみる。だが返事が返ってくる事はなかった。
透明人間になると存在まで消えてしまうのか?それとも私という人間は初めから存在していなかったのか?
私は一体いつから透明だったのだろう。
「もう一度聞くが、君が目撃したのはこの写真の人物で間違いないかい?」
男がテーブルの上の写真を指差す。
「はい。間違いありません」
男の目を真っ直ぐ見つめ頷いた。
「そうか……」
男は何か釈然としない表情で、顎に手を当てながら考え事をしている。
「私が嘘をついていると思うのですか?」
「いや、そうではないのだが……」
何やらモゴモゴと喋っているが、聞き取れない。
「はっきり仰ってくれて構いません」
そう言って姿勢を正し、男の言葉を待った。
駅の裏路地を進んだ先にあるこの喫茶店は、レトロな雰囲気と美味しい珈琲が私のお気に入りポイントだった。珈琲と日替わりのケーキのセットがお勧めらしく、仕事の息抜きによく通っていた。
いつもはそれ程人の入りは多くないのだが、今日は平日だというのに人が多い。特に若い女性が多いように感じる。そこでやっと、世間の学生達は夏休み期間に入ったのだと気付いた。
大人になると時間や季節の感覚が鈍るな、と少し寂しさを感じていると、男が喋り出した。
「実は……。この少年は、一ヶ月も前に亡くなっているのですよ」
「え?」
男の言葉に動揺した。
「でも、私がこの子を見たのはつい先日の事で……」
「いや。君を疑っているわけではないのだが、しかし、見間違いという事も考えられないかい?」
そう言われ、暫く考えてみる。確かにこの写真の少年によく似た人物を見た。三日程前の事だ。
少し長めの前髪に、黒縁眼鏡。特徴だけを挙げれば、似たような人物は山程居る。だが、写真に写っている人物と、私が見た少年は同じ鞄を持っていた。
「何故他人の鞄なんて覚えているんだい?それ程特徴のある鞄には見えないが」
男が訝しんだ目で私を見る。
「鞄が少し開いていたのです。その隙間から……見えて」
電車の座席に座る少年の斜め前に、私は立っていた。少年は鞄を包み込むように抱きかかえていたが、腕の間から鞄の中が一瞬見えた。
「故意に見た訳ではないのですが……その……」
「勿体振らないで教えてくれないかい?」
テーブルに腕を乗せ、少しだけ前のめりになって男が続きを促す。
意を決して口を開いた。
「人の手のような物が見えた気がして……あまりに衝撃的で、よく覚えていたのです」
財布を持って来るべきだったと少女は後悔した。母親と喧嘩して思わず家を飛び出した。幸いスマホだけは手に持ったままだったので、何も考えず電車に乗った。
適当なところで降りよう。帰ろうなどとは微塵も思っていなかった。まだ未熟な少女が冷静になるには時間が必要だった。
終電間際だというのに車内にはそれなりに人が居る。恐らく仕事帰りのサラリーマンに、人目も憚らずいちゃつくカップル。場所を弁えろと、思わず舌打ちしそうになるのを堪える。それでも昼間に比べたらいくらか快適だと感じた。
降りるタイミングを失い、つい終点まで来てしまった。電車に揺られる内に少し頭が冷えたのか、なんでこんな所まで来てしまったんだとまたもや少女は後悔した。
仕方なく電車を降り、酔い潰れて寝ている大人を横目に、改札を抜けて夜の街を歩く。
どうやら今日は七夕らしい。至るところに短冊が飾ってある。小さい頃はこの時期になると、織姫と彦星が無事会えるのか心配でてるてる坊主を窓に吊るしていたな、と懐かしい気持ちになった。
何処を見ても明るい。人混みの中をただ歩いた。この時間でも何だか熱気を感じて、まるで皆睡眠なんて知らないかのように見える。
織姫と彦星の事なんて誰も考えていなくて、ただ我欲を満たしたいが為に生きている。
立ち止まってSNSで"七夕"と検索すると、色々な人の願い事がずらっと並んだ。他力本願なもの、些細な幸せ、世界平和。
本来七夕の願いというのは、自身の努力で実現可能な事を願うのが良いとされるらしい。せっかくだから自分も何か願っておくか、と少女は心の中で呟いた。
空を見上げても天の川は見えない。喧騒の間を生暖かい風がすり抜ける。
知らない男に声をかけられたが、無視して駅へと引き返した。
小さい頃から会う人会う人に容姿を褒められた。両親共に純日本人だったが、はっきりとした目鼻立ちのせいか、たまにハーフに間違えられた。悪い気はしなかった。
高校の時、同じクラスに根暗な奴が居た。長い前髪、黒縁眼鏡、顔はいつも殆ど見えない。声を聞いた記憶も殆ど無い。
だが一度だけあいつの素顔を見た事があった。整った顔立ちに驚いたのをよく覚えている。あまりにもレベルが違い過ぎると嫉妬心も湧かないのだと、その時初めて知った。
俺は心の何処かであいつを見下していたのだと気付いた。いや、あいつだけではない。自分以外の周りの人間全てを下に見ていた。顔が良いという理由だけで勝った気になっていた自分を恥じた。実際は、俺は顔だけではなく中身もあいつより下だった。いや、優劣をつける事自体間違っているのかもしれない。
何故顔を隠しているのか不思議で、それからよくあいつを観察するようになった。自分でも気持ち悪いとは思ったが、どうしても知りたかった。
どうやら俺と違って、あいつは自分を良く見せようとは思っていないようだった。顔だけではなく頭も良かったが、決して知識をひけらかしたりせず、あくまでも地味に過ごしていた。
「なぁ、生きづらくねえの?」
ある時ついに声をかけた。
「何?急に」当然の反応だった。
「自分を隠して生きづらくねえのかなって」
正直に思っていた事を聞いたが、ぴんときていない様子。暫しの沈黙。
「別に隠していないし、これが僕の姿だけど」
「前髪と眼鏡で隠してる」
「前髪はすぐ伸びるから切るのが面倒なだけで、眼鏡は普通に目が悪いからかけているだけだよ」
拍子抜けだった。てっきり昔容姿の事で何かあったのかと思っていたのに。
自分の容姿についてどう思っているのか聞こうとして、やめた。恐らく何とも思っていないのだろう。何となくそんな感じがした。
自分とは真反対の人間。仲良くなりたいと思った。
あいつが遺体で発見されたのは、それから数ヶ月後の事だった。