【花畑】
少女は広大な花畑に立っていた。
辺りを見渡せば赤白黄色、橙や淡い紫の花々が整然と咲き並んでいる。花々は色ごとに区画され寸分違わず列を作っている。まるで色違いの虹のようなそれを見て、少女は思わず感嘆の声を漏らした。
花畑は果てしなく続いており、少し離れた丘の斜面にも同じように咲き誇っていた。その花々の一部、白色をした花群れの中にポツンと赤い模様が見えた。距離があるからか何かは判然としないが、少女はそれが気になり足を進める。
丘の花群れに辿り着くまで周りには様々な花が道を作っていたが、少女は横目でそれを見るだけで真っ直ぐ目的地を目指す。徐々に距離が縮まると、赤い模様が一つの文字だということに気づいた。
あれは明らかに『大』という字だ。少女は家族と旅行にいったとき、似たようなものを見たことがあった。最もそれは『大』という字を炎で象っていたが。
少女は歩みを止める。目の前には白いコスモスの中に、赤のコスモスが『大』という字を浮かび上がらせていた。
遠くから見ると不思議に思ったが、近づいてみれば大したものではなかった。ただそこに字があるだけだ。
少女は期待はずれに感じて元来た道を戻ろうとする。後ろを振り返ろうとしたそのとき、ふと目下に気になるものが止まった。
『大』でいうところの払いの部分、土の中から紐のようなものがちょろちょろと顔を出していた。
少女は屈んでその紐をよく観察する。まだ引っ張れそうな余裕が紐にはあったため、ぐいと引いてみる。
紐はするすると土の中から姿を表し、その先に何かそれなりの質量を持つものが繋がっていることを少女の掌に振動として伝えた。
目に見えない土の底にある何かに、少女は少なからず疑念と恐怖を抱いた。しかし、好奇心がそれを押さえつける。
少女はさらに力を込めて紐をぐいぐいと引いてみた。
紐につながった何かが土を盛り上げて姿を表そうともがいている。紐をもう一度引くと、何かは土を飛沫のように舞い上げて少女の足元に転がり落ちた。
靴だった。どれくらいの年月を土の中で過ごしたのか想像ができないほど、黒く汚れている。少女でも見たことがあるような若者向けのメーカーだった。
少女はまたしても落胆する。もっと何か自慢できるような発見があると思っていたが、やはり無駄足だったようだ。
少女は転がった一足の靴を花群れの中に置き、花畑を後にした。
赤のコスモスの下には靴が埋まっている。
少女はこれを微塵も疑問に思うことはなかった。
【空が泣く】
ほんの小さな雨がぽつりぽつりと頬を打つ。
よく人はこれを小雨と呼ぶが、涙雨という趣ある呼び方もあるらしい。昔の人はこの雨を、空が泣いているように見立ててそう名づけたのだろうか。
上空を見上げると、分厚く鈍色をした雲が空を覆い尽くそうとしていた。先程までは見えていた太陽の斜光も、出口をすぼめられ徐々にその姿を消していく。
びゅう、と凄まじい風が私を包み込む。
これは雷雨になるな。
私は澄んだ思考でそんなことを考えていた。
周囲を包み込んだ風がさらに勢いを増していく。
曇天が降らす涙もいつの間にか大きな雨粒となっていた。まるで、空が私のために泣いているみたいだった。
「泣いてくれるのは君だけか」
私は落ちゆく景色の中、空を見上げながらそう呟いた。
グシャリ。嫌な音がこだまする。
【君からのLINE】
なんだかそわそわして、スマホで何度も時間を確認する。
二一時〇五分。まだLINEを送ってから五分も経っていない。
僕は落胆した。たったの五分しか過ぎていないだなんて。僕は、密かに思いを寄せている彼女からの返信がくるまで、こんなにも落ち着かない気持ちで過ごさなければならないらしい。
思い人とのやり取りとは不思議なもので、あんなにも練りに練って修正を加えた文章を送ったとしてもその数秒後には、いやあちらのほうが良かったか、いやそれでは馴れ馴れしすぎるか、と修正案が次々に浮かび上がる。ただの友人であればこんなこと思いもしないというのに、恋というのは不思議なものである。
なかなか気持ちが逸ったままなので、僕は彼女とのLINEのやり取りを見返す。
『おはよう! 今日も学校頑張ろうね〜』
『部活おつかれ! 窓からみえたよ〜! シュートとかなんかすごかった!笑』
『塾がんばる!笑』
傍から見たら他愛もない会話だが、僕にとっては一つ一つ大切な思い出だ。
なんだか自分が意気地なしのように思えてしまうが、学校で声を掛けようにも彼女は仲の良い女子たちと会話しているし、自分の友人からからかわれるのも少し億劫だ……とつらつら並べてみたが、どれも言い訳にすぎないような気もする。
僕は自分が意気地なしであることを一人で勝手に認めながら、先ほど送ったばかりのLINEを見返そうとした、その時--
『塾終わった! その映画私も気になってた〜!笑 今週末行けそうだけどどう?』
「うわぁっ!」
突然の返信に驚き情けない声が出る。どくどくと心臓が早まり、顔がみるみる熱くなるのを感じる。ふるえだした手でスマホを掴み画面を確認した。
彼女から続けざまにLINEがくる。
『既読はや!笑』
もうなにもかも投げ捨てたくなった。すさまじい羞恥心に苛まれたが、それに勝るほどの喜びが後から押し寄せる。
デート、OK貰えたんだ!
僕は内側から溢れ出す喜悦を必死に押さえ込み、画面に目を向ける。
……まずはどう返そうか。話はそこからだった。
【命が燃え尽きるまで】
磔にされた私の足元で、炎がパチパチと音を立てて徐々にその威力を増していく。
周囲を取り囲むのは有象無象の民衆だ。皆下卑た笑みを浮かべながらこちらを見上げている。
一人の男が言い放つ。
「悪魔に魂を売った卑しい魔女め!」
その一声により、周囲の有象無象もあとに続く。
「このアバズレが!」「あれもお前がやったんだろう!」「早く死んでしまえ!」
一人が石の礫を投げると、同じように礫がいくつも投げられた。例え小さな石であっても、それが一定の距離から力を加えられて投げられればそれなりの拷問となる。
下半身を覆い尽くし始めた炎に包まれながら、体中を礫に痛めつけられ、苦痛のあまり私は獣のように呻いた。
「うあ、うあああああ‼︎ うぐああああ‼︎」
思考はこうも澄んでいるというのに、口から吐き出される音は言葉にはならなかった。
煙が肺に入り込みいやに息苦しい。朦朧とした意識の中で、私は周りを取り囲む悪魔共を睨み付けた。
悪魔共は、磔となった私の周りで笑っていた。人間の皮を被って、気味の悪い笑顔を貼り付けていた。
私は呪った。この境遇を、周りを取り囲む悪魔を、この世に人間として生を受けた自分自身を。
この身が焼け爛れ命が燃え尽きるまで、ジュクジュクと皮膚が溶け始めるのを感じながら、私は全てを呪い続けた。
【夜明け前】
無限に広がる夜空の果てから、わずかな光がぼんやりとにじんできた。橙色をしたその光は、まるで夜空を侵食しているかのように範囲を広げていく。
夜が明けようとしているのだ。
鉄橋に作られた歩道の中心に立っていた私は、眼前に広がるその景色に見惚れそのまま身を投げ出しそうになる。しかし、すんでのところで立ち止まった。静かにその姿を表した夜明けは私を魅了しその場に縛り付け、橋の上から乗り出した半身を引き戻らせた。
鉄柵についた朝露が掌を刺激して、私は今生きているんだという自覚が湧いた。
ひゅう、と清涼な風が私を覆って通り過ぎる。
下に流れる渓流からは水と岩がぶつかり合う騒々しい音が絶え間なく聞こえる。
私はその上で、ぼうっと夜明けの姿を眺めていた。
実際にどれくらいの時間そうしていたかはわからない。永遠とも取れる数十分だったかもしれない。景色に没入していた私の耳に、ブロロロと機械音が混じった。
その音は私の丁度背後で止まる。私は音の主の方を振り返った。
「おうい、嬢ちゃん。こんな時間に何してんだい」
私が振り返るのと同時に、口周りにひげを蓄えたタンクトップ姿のおじいさんがそう声をかけた。薄汚れた軽トラ、その荷台には野菜だかなんだかが入ったカゴが積まれている。
「いえ、ただ景色を見ていただけです」
「ああ、そうかいそうかい。なんだほら、嬢ちゃんの後ろ姿があまりにも寂しく映ってよう。こっから落っこちまうんじゃねぇかってつい声かけちまったよ」
「あはは、ご心配ありがとうございます」
おじいさんは年不相応に愛らしく破顔し、先ほどと同じようにブロロロと軽トラを発進させた。軽トラの背中が小さくなるのを見送って、私はもう一度景色に振り返る。
ほとんどを橙色の光に覆われた夜明けは、私にまばゆい光を浴びせる。あまりにもそれが眩しかったので、私は手を使って目の上に影を作る。
ふう、と一息ついて夜明けに背中を向けた。すぐ横に綺麗に揃えた二足の靴を履き直し帰路につく。
周囲の山々からは蝉や野鳥の鳴き声が響き渡り始めていた。