ときどき彼を思い出すのは、初恋の相手だったからだろうか。
思い出補正をかけても、とにかく生意気で人をからかうのが大好きだった、やんちゃな彼。
わたしからすると、そのやんちゃぶりがとても輝いて見えていた。たぶん正反対の性格だったからだと思う。前に出るのが苦手で、はしゃぐのなんて恥ずかしくてできなかった。友達も少なかった。
『お前いっつも暗いよな~。なに考えてっかわからねえし』
『……ごめんなさい』
『いや、謝られても』
たまに気まぐれを起こして話しかけてくるときもあって、だいたい茶化すような内容が多かったけれど、単純なわたしは「話しかけてくれる」という事実だけで嬉しかった。
それから彼と他のクラスの女子が付き合い始めた、なんて噂が流れはじめて、気づけばわたしは初恋を終わらせていた。
「よ、久しぶり」
成人を迎えてからの同窓会で、隣に座ってきた彼はわたしのことを覚えていたようだった。
「……わたしのこと覚えてたの?」
「まあな。雰囲気はだいぶ変わったなって思ったけど、顔は結構面影あるぞ。ってかお前も俺のこと覚えてたんじゃん」
「そりゃあ、ね。結構からかわれたし?」
「……いや、それはごめん。悪かったと思ってる」
まさか謝られるとは思ってなかったから、逆に調子が狂ってしまった。
あれからわたしも彼も歳を重ねて、子どもではなくなった。少しでも性格が変わっていてもおかしくない、けれど。
急に、ここだけ空気が変わってしまった。単にわたしが意識しすぎているだけ? 隣を窺うのもちょっと勇気がいる。
「俺、実はお前のこと好きだったんだよ。たぶん信じてもらえないかもだけど」
口に運んだ料理を詰まらせそうになった。軽く咳き込むと、遠慮がちに背中をさすってくれる。
「い、いきなりな告白すぎない?」
「言えないまま卒業しちまったのが結構、つらかったんだ」
ゆっくり視線を向けると、眉尻を下げた表情が待っていた。これは嘘を言っているようには見えない。
呼吸を落ち着かせる意味でも、一度深く息を吐き出す。
「……あのとき言ってくれてたら、いろいろ、変わったかもね」
今頃言われても、わたしの気持ちはもう、あの頃と同じには戻れない。それはたぶん、彼も同じはず。
「……だよな。うん、ごめん」
――でも、信じてくれてありがとう。
付け足したようなお礼に、少ししてから隣を見ると、もう彼の姿はなかった。
お題:「ごめんね」
処分できないままの合い鍵を差し込む前にハンドルを動かすと、がちゃりと音がしてドアが開いた。
――やっぱり、今日も来てるのか。
「……今日は寒いから風邪引くぞ」
物のほとんどないワンルームの部屋で、窓辺に座り込む彼女に声をかけるが、いつも通り反応はない。仕方なく持参した羽織りものを肩にかける。
窓の外を彩るものはなにもない。敢えて言うなら向かいの一軒家から漏れる光が見えるくらい。
「見えるもんなんか、なにもないだろ」
わかっている。彼女はもはや現実を見ていない。
兄が亡くなってからまだ一ヶ月だ。結婚の約束までしていた彼女を癒すには、時間が足りない。
『俺が死んだら、すまないけど彼女のことを守ってやってくれ』
死期を悟った兄の遺言みたいなものだった。
だけど正直、無理だと思う。
このひとは、兄を愛しすぎて、囚われたまま、動く気配がない。
かける言葉がいつも見つからなくて、できることは隣に腰掛けて、彼女の生きている証拠を少しでも感じ続けることだけ。
弱々しい、鼻をすする音が聞こえてきた。兄が亡くなった瞬間を思い出しているのか、見たくない現実に押しつぶされようとしているのか、状況はわからない。
「どうすりゃいいんだよ……オレだって、もうわかんねえよ」
兄の宝物だったこの人をなんとかしてあげたい気持ちはある。でも、気持ちだけじゃどうにもならない。
地面を叩く音に気づいて立ち上がり、外を確認する。どうやら雨が降ってきたようだ。そういえば通り雨があるかもしれないと予報があったっけ。
――ほんとうに、雨は止むのだろうか。その役目は、ほんとうにオレしかいないんだろうか。
強くなる雨足を、ただ見上げるしかできなかった。
お題:いつまでも降り止まない、雨
新しい年の始まりを迎えると、いろいろ妄想を並べる。
あれをしよう、これに挑戦しよう、中途半端に手をつけていたあれもいっそ片付けてしまおう。
妄想のなかの自分自身はそれはもう、羅列した事柄をすべて華麗に平らげていく。なんならおかわりまでしている。しかも何度も。
しかし、一年が経とうとする頃に、我に返るのだ。
――また、なにも達成できなかった。
――小さな山や谷がそれなりにあるだけの日々を過ごしていただけだった。
昔は有言実行とばかりに動くことが苦ではなかったのに、いつからこんなに腰が重くなってしまったんだろう。
無駄に気持ちが空回りするようになってしまったんだろう。
このループから早く抜け出したい。
そう願う「だけ」の日を、今日も過ごしている。
お題:一年後
「今日は風が強いわねぇ」
直帰の途中、ふと先輩がそんなことをつぶやいた。
「そうですね。午後になったら少しは収まるかなって思いましたけど」
春先によくある突風レベルの強さではないものの、髪の長さが肩ぐらいまである先輩はちょっと大変そうだった。こっちもこっちで前髪が崩れそうでハラハラしていたけれど。
「ねえ、もし風に乗ってどこかに気軽に行けるとしたら、どこに行ってみたい?」
そんな質問をしてきた先輩は、いつものしっかりした雰囲気とは違い、無邪気に映る。
「風に乗って、って鳥みたいに空飛んで、ってことっすか?」
「まあ、そんな感じ。マント広げて飛ぶでも、なんでも」
「自由に飛べたらいいなって思ったことありますけど、急に言われたらわかんないもんっすね……」
ベタに海外とか、あるいは国内でも結構遠い西日本のほうとか?
「私は、誰も追いかけてこれない場所かなぁ」
小さな声だった。
なんだか穏やかじゃない内容に思考を止めて隣を見つめると、先輩はわずかに目を見開いてこちらを見返した。
「え、どうしたの?」
「誰も追いかけてこれない場所って……」
たぶん、先輩は聞こえていないと思っていたのだろう。明らかに言葉に詰まっている。
「いや、ほら、最近忙しいじゃない。だから静かな場所にサクッと行けたらなってこと」
先輩は誤魔化せていると思っているようだったが、俺には効かない。
いつもエネルギッシュで情けない俺を鼓舞してもらうことも多くて、あっという間に憧れの存在になっていた先輩。
そんな彼女を一番近くで見てきたから、ある日から様子がおかしいことにもすぐ気づいてしまっていた。今日だって「いつもの姿」を懸命に保とうとしている様子に胸を痛めていたところだ。
「どこか遠くに逃げたいんですね」
ついに、先輩の足が止まった。少ししてから動き出したかと思うと、近くにあった木製のベンチに力なく座り込む。
「あー、うかつだったなぁ。なんで私、あんなこと言っちゃったんだろ」
無意識だったのだとしたら、相当追い詰められている証に違いない。
いつも以上に、先輩の身体が小さく見える。
「逃げたって、しょうがないのよ。結局は、私が解決しなくちゃいけないんだけど……」
「じゃあ、俺がその役目引き受けますよ」
ほとんど勢いだった。
顔を上げた先輩は驚いた顔をしていたが、俺自身も同じ気持ちだった。
でも、放っておけない。
「先輩が一人で逃げにくいなら、俺が先輩の手を引っ張って、無理やりでも連れていきますよ。立派な足になってみせます」
先輩が、力なく笑った。
「逃げたい理由も聞かないで、一緒に逃げてくれるんだ?」
「少なくとも、膨大な借金を作ったとかいう理由ではないと信じてます」
「借金! それは確かに違うかな」
今度は肩を震わせながら笑う。
「……ありがとね。いい後輩をもって、私、それだけでも、救われてるわ」
俯いている先輩がどういう表情なのかはわからない。
それでもたぶん、泣いている。
根拠のない確信を抱きながら、先輩の前に跪いた。
「遠慮しないでください。俺、本気ですから。いつも先輩に助けてもらってるし、恩返ししたいんです」
背後では、いつもの街の喧騒がBGMのように流れている。俺と先輩だけが切り取られて、宙にでも浮かんでいるみたいだ。
どれだけ、その感覚を味わっただろう。
先輩が、遠慮がちに俺の手を掴んだ。
お題:風に乗って
「君の存在が、僕の生きる意味なんだ。君がいてくれるから、僕はこうしていられるんだよ」
「……そう。それは嬉しいわね。だったら」
――私が死んだら、後を追ってくれるの?
――私が一緒に死んで欲しいって言ったら、うなずいてくれるの?
「も、もちろんだよ。いきなりな質問だからびっくりしたけどね」
言いよどんだのがその理由だと言いたげだけれど、いずれ私の前からいなくなるのは目に見えている。
私の見た目に惹かれて寄ってきた人間はみな、そうだ。
「……添い遂げる覚悟もないくせに」
軽々しく、私を生きる意味になんてしないでほしいわ。
お題:生きる意味