ショッピングモールから外に出ると、頭上に冷たい感触がいくつも降ってきた。
「げっ、雨!」
気づけば空模様はすっかり鉛色に様変わりしている。確かに天気予報では「雨の降る場所もあるかもしれません」なんて言っていたが、まさかここが選ばれるなんて、家を出たときの天気からは想像もつかない。
今のところまだそんなに激しくはない。駅まで走って行こう。電車にさえ乗ってしまえば、自宅から最寄り駅までは走れば十分もかからない。なるべく傘は買いたくないし、レンタルも面倒くさい。
しかし目論見とは裏腹に、どんどん雨脚は強まっていく。いくら撥水加工のリュックとはいえ、買った物が濡れないとも限らない。
運よくシャッターの閉まった屋根つきのお店を見つけて、立ち止まる。アプリで雨雲ルートを確認してみると、通り雨のようだった。予想時間通りに止むかはわからなくとも、今より弱まってはくれるだろう。
ハンカチで顔を拭いていると、慌ただしい足音が近づいてきた。その方向を見やると同時に、フードを被った男性が少し離れたところで並ぶ。
「ふー、参ったなぁ」
フードを取った男性は、横顔でもわかるくらいに整った顔をしていた。どちらかと言えばアイドルっぽい。悲しいかな、あまりドラマやバラエティを視聴しないので誰かにたとえることはできないのだが……。
無意識に見つめていると、視線を感じたのかこちらを振り向いた。
「お姉さんも雨宿りですか?」
「……あっ、ご、ごめんなさい。綺麗な顔だなってつい見つめちゃって」
素直に言うやつがあるか。また謝ると、笑われてしまった。
「気にしないでください。いきなり赤の他人の男が来たらちょっと居心地悪いですよね」
「そんなことないです。だってこの雨ですもん。あなたも雨宿りですよね」
これ以上変な空気を作りたくなくて、なるべく普段通りの口調を努めて告げたのだが、彼にはツボだったらしい。それでも頷いてくれた。
「移動中に降られちゃって。カサ持ってくるの忘れちゃったんですよね」
「私もです。一応天気予報は見てたけど、まさかこの辺で降られるなんて思ってなくて」
「参ったなぁ。この辺コンビニもないし……」
スマホを取り出して、おそらくメッセージを送っているようだった。
大事な用事か、仕事なのだろうか。ラフな格好ではあるが、現地で着替えるのかもしれない。服はなんとかなるとしても、髪型は難しい。
「アプリ予想ですけど、もう少ししたら止むかもしれないですよ」
「本当ですか? よかった〜ありがとうございます」
人懐こい笑顔を向けられて視線をふらつかせてしまう。やっぱりこの人、芸能人なんじゃ……。かといって素直に尋ねるのも気が引ける。
会話が途切れて、なんとなく鉛色の空を見上げる。落ち着かないわけではないが、不思議と気まずい空気でもなかった。かといってずっと浸っていたいわけでもない、けれど命令されたら苦でもないと思う。
現実と非現実を彷徨っているような気分だった。
「なんか、こうやってぼーっとする時間久しぶりです」
隣の彼は、苦笑をこぼしていた。
「忙しいのは嫌いじゃないですけど、疲れたなぁって思うってことは、ちょっと突っ走りすぎてたのかなって」
「自覚ないときってありますよね。わかります」
何度かそういう状態に陥ったことがあるからこそ、彼の言葉が身にしみる。
「でも『やばっ!』って気づいたときはありえないくらい具合悪くなってたりするんで、後悔する前にうまくコントロールして動いたほうがいいですよ」
ここまで喋って、口元を抑えた。不思議そうに首を傾げる彼に、空いた手をふらふらと左右に振ってみせる。
「いえ、ちょっと偉そうに語っちゃったなって。初対面なのに」
「大丈夫ですよ。あなたもそういう経験があるから、教えてくれたんですよね?」
ぎこちなく頷くと、丁寧に頭を下げてくれた。
「ありがたいです。ありがとうございます。周りにも少し休めって忠告されてたの、今さら身にしみました」
見た目は自分より若いのに、きっと才能に溢れている人なのだろう。そういう彼なら、簡単に休めないというのもわかる気がする。
ふと、脳裏に今日買ったある物が浮かんだ。リュックを漁って、目的の紙袋を取り出す。よかった、濡れてはいない。
「これ、よかったら休憩時間にでも飲んでみてください。緑茶、お好きですか?」
「え、嫌い、ではないですけど……」
突然差し出されたそれを、彼は戸惑い気味に見つめる。
「私が仕事中によく飲むお茶なんです。味はペットボトルの緑茶みたいなものなんですけど、香りがすごくいいんです。変に色づけされてないと言えばいいのか……」
説明が下手くそすぎて頭を抱えたくなる。初めて嗅ぐとインパクトが薄いと感じるかもしれないけれど、それが逆に気持ちを落ち着けてくれる、隣に優しく寄り添ってくれているような心地になるのだ。
「すすめた人にも好評なんですよ。ちなみにネットでも買えます」
「その、いいんですか? ストックなくなったから買ったんじゃ」
「いいんです。これ、いつも買ってるお店でたまたまキャンペーンやっててもらったものだから」
本当は嘘だが、たいした金額ではないし、このお茶のファンが増えるなら安いものだ。
「ありがとう、ございます。楽しみです」
ちょっと照れたような、控えめな笑顔だった。年齢がわからないのに年相応と感じて、可愛さも感じる。
「……あ、雨、だいぶ弱まりましたね」
地面を叩く雨粒がほとんどない。道行く人々も先ほどより傘を広げている人は少ない。
「それじゃあ、私行きますね。身体、気をつけてくださいね」
「あの。ちょっと待って」
踏み出しかけた足を止めると、なぜか緊張した面持ちで自分を見つめる彼が、意外と近くに立っていた。
「これ、渡していいですか。今度お礼させてほしいんです」
反射的に差し出されたものを受け取ると、返事も待たずに彼は走り去ってしまった。
「……こんな経験、初めてなんですけど」
名刺ぐらいの紙には、自分も使っているメッセージアプリの名前と、ID名が印字されていた。
お題:ところにより雨
アップした写真を確認しにいって、自然と唇が緩んだ。
――今日も素敵な写真ありがとうございます。マジックタイムっていうんですね。なんだか夕日なのに夕日じゃないみたいな、不思議な感覚になる色合いですね。
コメントの横には「とおる」というニックネームが書かれている。いつものようにお礼コメントを書いて、ページを閉じた。
とおるさんは、半年前に写真の投稿を始めた初期から応援してくれている人だった。もちろん他にも応援してくれている人はいるけれど、とおるさんは特別。
敢えて言うなら、さりげなく背中を押してくれるような存在だった。
つらいことがあると、過去にもらったとおるさんのコメントを何度も読み返した。写真に関しての感想のはずなのにどうしてだろう、自分自身をも励ましてもらっているように感じた。
変な押しつけがましさがなく、ただ素直に自分の感想を綴っているのがわかるからかもしれない。
実際、どんな人なんだろう。何度か想像したことがある。
文面からは性別も年齢も読み取れない。
それでも、個別に連絡を取ろうと思ったことも、実際に会いたいと思ったこともなかった。
ネット上で、感想をもらい、返す。それだけの関係だからこそ、素直なやり取りができているのだと思う。
でも、実際の自分を見られてがっかりされたくないという理由もあったりする。
なんてとおるさんが知ったら、もっとがっかりされそうだ。
うっかり余計なことを考えてしまった自分に苦笑しながら、次の写真のネタに思考を切り替えるのだった。
お題:特別な存在
あの人の言葉を信じたのも私。
何度裏切られても信じ続けたのは私。
わかってる。なにがあっても好きな人を信じる私、という悲劇のヒロインを演じる姿に酔っていただけ。
向こうも私と同じ気持ちでいてくれていると盲目的になっていたせい。
でも、もうおしまい。
なにもかも失ってしまったことに気づいた瞬間、見ないふりをしていた事柄が容赦なく降りかかって、ひたすらツケを払っている。
夢から醒める瞬間って、あんなにも怖いのね。
安全なところで、滑稽だと嘲笑っているんでしょうね。捕食者のあなたは「勝ち組」だものね。
ほんとうに、バカみたい。
唇から血がにじむほど噛みしめても、壁を殴りつけても、ただ、私自身が痛いだけなのに。
バカみたい。――馬鹿野郎だ。
お題:バカみたい
※軽くBL要素がありますのでご注意ください。
「あのさ、あんた邪魔なんだよね。いつでも彼と一緒にいてさぁ……いい加減離れてくんない?」
ああ、うざったい。今日も、なにも知らない奴の相手をしないといけないなんて。
「ちょっと聞いてるの?」
「うっせーなぁ。離れるのはお前の方だっての。もしかしてお近づきになれるって期待してんの? ムリムリ」
顔が真っ赤になっていくさまはちょっと面白い。
「あ、あんたが彼のなにを知ってるってのよ! いい加減言わないでよ!」
「あ? お前こそなに言ってんの?」
こっちの声にびびったのか、思いきり唇を噛みしめたままで反論はなかった。誰も彼も度胸がなくてつまらない。
「あいつのことよく知ってんのはおれだけなの。おれ以外知る必要もないの。あいつもおれ以外のことはどうでもいいって言ってるし。嘘だと思うならあいつに訊いてみたら?」
これ以上の無駄話は必要ない。背中に投げつけられる罵倒の数々はただの雑音にしか聞こえなかった。
「お帰り。ごめんね、毎回面倒かけて」
「気にすんなって。お前だって同じ目に遭ってるだろ」
「僕はいいんだよ。ちょっと警告してあげてるだけだから」
彼は自分以外の人間には驚くほど冷淡だ。さっきの奴なんかその姿を見たらみっともなく泣き出してしまうんじゃないか?
「あーあ、今回の人生はなかなか落ち着かないね。学生だからかな」
「大学生になれば実家出れるし、二人で過ごす時間も増える。もう少しの辛抱だ」
自分たちは、前世からのつながりを保ったまま転生を何度も繰り返している。
今回の人生では、自分たちは「幼なじみ」という関係のようだった。
――次生まれ変わったときも、必ず二人で生きて、二人で死のう。
最初に交わした約束を、今も叶え続けている。
負担? そんなことは全然ない。
だって、彼は他の誰も変わることのできない、自らの命と同じくらい大切な人だから。
次生まれても、またその人と生を共にしたいと願うのは当然だろう?
彼からのキスに思わず笑ってしまう。ちょっと食むように唇を包むやり方は、何度生まれ変わっても変わらない。
「今回のおれ達は恋人同士じゃないだろ?」
「あれ、そうだったっけ?」
すっとぼけた声にまた笑う。まあ、今さらではある。
きょうだい、親友、仲間、恋人――いずれも、何度も経験してきた関係だけど、どれも正解で、外れでもある。
誰よりも大切な存在。
自分の世界に必要不可欠な存在。
それだけわかっていれば充分なのだから。
お題:二人ぼっち
ああ、これは夢だわ。
だって、「私」を見下ろす私がいるんだもの。それにこういう夢、もう見慣れてしまった。
「私」は無邪気にあの人と過ごしている。心から楽しいのだと、幸せなのだとわかる。
――私、あんな顔して笑ってたんだ。
彼と出会うまで、まともに笑ったことがなかった。笑うってなんだっけって、ばかみたいな問いかけを自分自身にしたりしていた。
あの人が私を変えてくれた。根気よく付き合ってくれた。
――彼も、嬉しそう。よかった。
夢でも、あの顔を何度も見てきたから信じられる。
「私」だけじゃなくて、私も隣に立ちたい。触れたい。
地上を目指して腕を伸ばしても、距離は全く埋まらない。声も、唇がぱくぱくと上下に動くだけで、出ない。
今回こそ願いを叶えるんだ。醒める前に早く、早く。
――ねえ、私もここにいるのよ。気づいてよ、私の名前をまた呼んでよ!
開けた目に映ったのは、いつもの天井だった。
また、私の願いはかなわなかった。
せめて、夢の中でくらい、あの人と自由に過ごさせてほしい。
もう……現実であの人に触れることはできないのだから。
お題:夢が醒める前に