終点です、のアナウンスに沈んでいた意識が浮上する。
運よく座れた朝の通勤電車だったが、しっかり居眠りしてしまっていたようだ。
一瞬突き上げた焦燥感が、同じスピードで下降する。
……まあ、いいか。
適当な欠勤理由を会社のメーリングリストに連絡して、下車してみる。
駅名をスマホで検索してみると、どうやら隣県まで移動していたらしい。辺りを見回すだけでも、都内とは雰囲気がだいぶ違うとわかる。まず空気が違う。
観光案内所があるから、観光地として有名な場所らしい。正直旅行のたぐいをあまりしないのもあって、地理にはてんで弱い。
とりあえず、適当にぶらついてみる。なにも考えず、歩いてみたい気分だった。
……このまま、あてもなく旅をしてみたいかも。
ただの逃避なのはわかっている。それでも特に今は、あの会社で働き続ける気力はなかった。
必要のない媚を売って、必要のない泥をかぶって、無駄に矢面に立つことを求められる。
この時代になっても不必要な言動を続けなければならない会社など願い下げだ。
――そうあっさり切り捨てられたら、どんなに楽だろう。
ある公園にたどり着いた。どうやら展望台があるらしい。
いつもなら疲れる、という理由で階段をめったに使わないのに、その三文字に惹かれて足を進める。早い段階で息が切れ始め、太股も重くなってきても、登ることをやめない。
――気まぐれが、報われた。
雲ひとつない快晴も手伝って、かなり遠くまで景色が見通せた。森だらけかと思っていたが、車で移動しないと無理そうだが海辺にも行けるようだ。軽く深呼吸してみると、嗅ぎ慣れた埃臭さのような、澱んだ香りはしない。「空気がおいしい」の言葉にふさわしい。
木製のベンチがあったので、腰掛けて目を閉じてみる。
少し汗ばんだ身体に、そよ風が心地いい。都会なら必ずある喧噪もほぼないものの、ときどき聞こえてくるエンジン音や人の声などが確かな生活感を伝えてくれていた。
こんな時間、もう何年も味わっていなかった。味わえるとさえ思っていなかった。
喉の奥からこみ上げるものを、自然と受け入れた。一度はずれた枷は止まるどころか勢いを増して、無理やり押し込んでいたさまざまな感情たちを押し流していく。
――今日が平日でよかった。うっかり居眠りして、たどり着いたのがこの街でよかった。この公園に足を運べてよかった。
再び目を開けて立ち上がると、歪んだ視界でも景色の美しさは変わらなかった。
お題:遠くの街へ
現実逃避ってそんなに悪いこと?
現実のわたしには逃げ場がない。
空想に縋るしか自己を保てないの。
わたしの唯一の拠りどころを否定しないで。
あの頃付き合っていた君は今、いったいなにをしているのだろう。
たまに、思い返すことがある。
お互い眩しいほど一途で若くて、愛さえあればなんでもできる、乗り越えられると信じて突き進んで、着いた先は不幸のスタート地点だった。
何度怒りをぶつけ合い、泣き合い、傷つけ合っただろう。
どちらかだけが悪いわけではなかった。ほんのわずかから始まったすれ違いが、気づけば軌道修正の効かないところまで進んでしまっていた。
『もう、いや……もうあなたの顔は見たくない! 消えて、私の前から消えてよ!』
その言葉を叫んだとき、自らもズタズタに切り刻まれていたに違いない。深い悲しみが見え隠れしていたのはきっと、そう。
――これらはすべて、距離を置き、長い時間が経ったからこそ見えたものだ。
今は、少なくとも自分は新たな出会いを迎えて結婚をして、可愛い子どもも授かった。きっと、君と過ごした日々がなければ得られなかった。
会っても仕方ない。向こうは忘れたい過去のままでいたいかもしれない。
それでも叶うなら、今の君を一目でもいいから見てみたいと思う。
お題:君は今
「人間関係って、距離が近すぎるとうまくいかないって言うだろ?」
いきなりなにを言い出すのかこの人は。
「見たいものが近くにありすぎると一部しか見えないだろ? 拡大しすぎたみたいにさ」
「ま、まあ」
最前列の映画館みたいなものだろうか? 一部しか見えないわけではないが、近すぎるのに変わりはない。目も痛くなるし。
「適切な距離感を学んで、初めてその全貌が見える。ここが好き、ここは嫌い。そんなふうにね」
「つまり、なにが言いたいんです?」
よくぞ聞いてくれたと言いたげな、眩しい笑顔が向けられた。……確かさっき告白してきて、私に振られた人ですよね?
「今の僕と君は、ある意味距離が近すぎると思うんだよ」
そう繋がるとは思わなかった。
「だから僕の悪いところしか見えていないんじゃないかな。僕の人となりをもう少し観察していればまた見方が変わるんじゃないかと、そう思うんだよ」
……つまり、このまま振られて終わるわけにはいかないと言いたいのだろうか。普通、もう脈はないと渋々でも受け入れるものだが、よほど諦めが悪いらしい。
「確かに、私はあなたのことよく知らないですね。仕事で絡んだことないし、正直初めて知ったくらいだし」
「だ、だろう?」
胸を押さえているが事実なのだから仕方ない。
「今も無茶苦茶言ってるなーって呆れてもいますし、あなたが言うような奇跡は全く起こりそうにないって思ってもいますけど」
「あ、あくまで予定だろ? 予定は未定と言うじゃないか」
「全く、って言いましたよ」
……なんだか少し楽しくなってきてしまった。この人、変だけど面白い。
「わかりました。ここはベタに『お友達から始めましょう』?」
呆気に取られたように、目を丸くしている。うまくいくとは思わなかった、とでも言いたげだ。
「やっぱりやめようかな……」
「ま、待ってくれ。すまない、君の懐の深さと思いきりのよさを改めて噛み締めていたところだったんだ」
「改めて、って、私たち初対面なのに」
「僕は君のことを好き、だからね」
ずっと物陰から見ていました。つまりそういうことなのに、こうも堂々と言い切られると変な説得力を感じてしまう。
「わかりました。そういうことにしときます」
「本当だぞ? 僕は嘘は嫌いなんだ」
「だからわかりましたって」
少なくともさっきの無関心さはなくなっていた。
どうやら「適切な距離感」に少し近づいたらしい。
お題:0からの
ふと頭上を見上げると、裸だらけの枝に一枚、オレンジの葉がぶら下がっていた。
まるで季節に置いていかれたかのようだが、なぜか眩しく映る。
自然と、スマホのレンズを葉に向けていた。シャッターを切った瞬間、思わず目を瞑る。
そこに葉はいなかった。軌跡を追うように視界を下げていくと、他の枯葉たちの海に沈もうとしている。
しゃがんで掬い上げ、身長と同じくらいの位置にあった枝の生え際に乗せた。
あんなに眩しかったのに、ひどく褪せて見える。
まさに、一瞬の輝きだった。だからこそ目を引いたのかもしれない。
もう一度カメラに収めて、樹の根元にそっと置いた。
お題:枯葉