故郷の田舎にしばらく滞在して、都会に戻ると気がつくことがある。
まず、自分の産毛。
あとは、小さな顔のニキビと、
歯の色。
だんだんと細部から広範囲に広がって、
骨盤がどうとか、
ちょっと肩が撫で肩気味だとか、
右だけ筋肉が張ってるとか、
ひとしきり問題点を挙げては、
金で解決できることを考える。
これは、都会がどう、田舎がどう、
とか、そういう話じゃなくて、
わたしにはいつもそういう変化がある。
そういったことをひとしきり丸ごと「なんとかした」ときに、
自分も満足するし、
見た目も変われば人の評価も変わっていく。
そしていつも、ずるりと自覚なしの底なし沼に、
承認欲求と内なる真っ暗闇に引き摺り込まれてゆく。
気になるのは「自分」しかいなくなって、
周りがどうでもよくなり、
それでも、以前の「私」よりきっとマシよと言い聞かせる。維持費に不安と葛藤を抱きながら。
ただそこには、確かに、「幸せ」を感じている。
そして、故郷の田舎に戻ると、
散々否定してきた「私」を求める人がいる。
化粧でもなく、体型でもなく、賢さでもなく、
産まれたんまんまの「私」でないことに、
違和感を持つ人がいる。
そういう人たちと話していると、
私の視点は外側に向いて行く。
お金も時間の使い道も、自分ではなく、周りの人と一緒に使いたいと思うようになる。
だんだん、産毛も体型も気がつかなくなって行く。
ただそれでも、私の心は幸せで満ち溢れている。
誰にもわからない、私の幸せ。
どっちも、私が喜ぶことに間違いはないけれど、
きっとどちらも私の「依存」。
いつか、私がどこにいたって、
変わらない自分になれるといいな。
私が私を保ちながら、
他人を素直な気持ちで愛したいことが、
私はどうしてこんなに難しいんだろう。
今の時代
真面目な風潮と、いうか
悪いものは淘汰されてみんなで改善していこうという
そういう流れの恩恵を受けている部分も感じつつ。
人間だから
間違ったり汚かったり最低で恥ずかしい部分があるはずなのに、
それが直向きに隠されて
袋叩きにあって
再生不可能なのは、あんまり好きじゃない。
失敗が許されないのなら、
ゼロから清廉潔白でなければならない、そんな感じ。
それって、先天的なものだけを特別視してるみたいに感じる。
頭で考えて賢くて論理的で、
というのが良いというわけでもなく、
感情が爆発してときに汚いのもそれはそれで良いし。
というか、本来そっちの方が健康的な感じ。
でもこんな主張ができるのは、
いろんな人が我慢して守ろうとしてる秩序があってこその意見なのかな。
どっちが悪いとかではないけれど、
いろんな証言とか証拠が嫌というほど残って、
日々の積み重ねがいちいち気が張る時代だなと思う。
立場や状況が揃えば、
人の行動なんてたいして変わらないのだから、
人と自分の変化を受け入れるくらいの余裕を
私も持っていたいなと思う今日この頃。
sweet memories
失った 夢だけが 美しく 見えるのは なぜ かしら
すごく好きなフレーズ。
松本隆さん、ファンです。
大好きな人との恋愛は、思い出せるように叶わず終えてもそれはそれでいいかも。
全然話は変わるけど、
好きなフレーズでいうと、
イルカさんのなごり雪の
きみが さった ホームにのこり 落ちては溶ける 雪を見ていた
も、大好きです。
雪国育ちなのもあって情景が浮かびます。
作詞家って、すごいなー。
好きになれない、嫌いになれない
リストカットという行為は、好きじゃない。
理由は、「メンヘラ」ぽいから。
「メンヘラ」を嫌厭するのは、学生時代好きだった人に「メンヘラな女はいやだ」と言われたから。
だけど私は知っている。
この気持ちは同族嫌悪に近いものだと知っている。
リストカットが、五感を刺激することで自分を守る役割を果たすことを知ったのは大人になってからだった。それは、酷く納得する理屈で、腑に落ちた。
私の両腕には、傷がない。それは、傷つけたことがないから。
だけど、私はいつも頭の中の私にナイフを刺している。
悲しいとき、
寂しいとき、
嬉しいとき。
私が私として何かを感じても、すぐにそれは「はずかしい」という感情に変わっていく。そして私のなかにもうひとりの私がぬるりと現れて、躊躇なく、ぐさりぐさりと私を刺すのを想像する。
何もない地面に真っ赤な血がばーっと広がる。そのあとに、まるで花畑のなかに寝転がっているような、
爽快感に満たされていく。
刺されている私は、悲鳴も抵抗も恐怖もなく、それを受け入れている。そうする役割があるように、受け入れている。
「私が死んだ」ことを認識して、「恥」もなくなる。
「安心してください、『わたし』は死にました。もう安心です」
ナレーションのような、聞こえる訳でもなくただそのような通知が私の神経を辿って認識する。
そうして、絵面はひどく物騒なのに、私は極楽浄土で神様から赦しを得たような、安心感に包まれる。
まるで、「よくやった」と大きな神様に抱きしめられているような。悪の根源を消したような、爽快感。
それでも、死んだのは間違いなく「私」なのに。
先ほどまでに恥ずかしくて苦しんでいた自分が居なくなり、笑顔で生きていられる。「私の中のだれか」が、酷く安堵して喜んでいる。
それなのに、いつも、ふとした時に、
今まで何も言わず沈黙していた死体が動き出すように、
涙が止まらなくなる日がある。外が雨なだけで、靴紐が解けただけで、買い忘れたものがあるだけで、理由を見つけられたように泣いてしまう。
わからないようで、私は理由を知っている。
死んだ私が、私を恨んでいる。私が私を蔑ろにしてきたことを恨んでいる。
このままつづけば、きっと、私を刺すナイフの数はどんどん増えていくのだろう。なぜなら、私が私を蔑ろにする度合いだけ、私は私を恨み、世の名に唾を吐いて、悪態をついてしまうから。私が私を嫌いになる度合いだけ、私は人を嫌いになり、人から嫌われていく。
それでも、
こういった自分のことを、
たった4文字の「メンヘラ」で片付けられたくないとおもってしまう。
好きにもなれなければ、嫌いにもなれない。
だけどいつだって、私は私しか見えていない。
だから、そういうところが嫌いなんだってば。
創作 250430
お題関係なし
居酒屋の帰り、乗ったタクシーがタバコ臭くて、これはまずいと思った。大学の頃、バカスカと吸っては酒を飲んでいたことを思い出した。
あぁ楽しかっだなぁ、なんて考えてたら、
久しぶりにコンビニで一箱買ってしまった。
ああ、やってしまった。
せっかく辞めてたのに。
たばこを吸っていることを知り合いにいうと、
たいてい、意外だの、やめとけだの、散々言われる。
確かに、私の装う風貌には反している気もする。
そもそも、たばこを吸うようになったのは、
1人の女友達のせいだった。
性にも奔放で自由な女だった。
そして、絶対に私のことを好きにならないことが、私は好きだった。
その女には、私の卒業アルバムをばら撒かれたり、都内の居酒屋に知らん男を連れてきた挙句ひとり取り残されたこともあった。
今思えば最悪だった。
すべて縁をきって、その子のその後は知らない。
私はコンビニで、ひとり、その子と同じ銘柄のタバコを吸った。
結構傷ついたし、たぶん傷つけもしたし、
今思うとそいつのことはそこそこ嫌い。
けど、なんか嫌いになれないのは何でだろう。
このたばこと同じくらいに。
あ〜せっかくやめてたのに〜
タバコうめ〜