好きになれない、嫌いになれない
リストカットという行為は、好きじゃない。
理由は、「メンヘラ」ぽいから。
「メンヘラ」を嫌厭するのは、学生時代好きだった人に「メンヘラな女はいやだ」と言われたから。
だけど私は知っている。
この気持ちは同族嫌悪に近いものだと知っている。
リストカットが、五感を刺激することで自分を守る役割を果たすことを知ったのは大人になってからだった。それは、酷く納得する理屈で、腑に落ちた。
私の両腕には、傷がない。それは、傷つけたことがないから。
だけど、私はいつも頭の中の私にナイフを刺している。
悲しいとき、
寂しいとき、
嬉しいとき。
私が私として何かを感じても、すぐにそれは「はずかしい」という感情に変わっていく。そして私のなかにもうひとりの私がぬるりと現れて、躊躇なく、ぐさりぐさりと私を刺すのを想像する。
何もない地面に真っ赤な血がばーっと広がる。そのあとに、まるで花畑のなかに寝転がっているような、
爽快感に満たされていく。
刺されている私は、悲鳴も抵抗も恐怖もなく、それを受け入れている。そうする役割があるように、受け入れている。
「私が死んだ」ことを認識して、「恥」もなくなる。
「安心してください、『わたし』は死にました。もう安心です」
ナレーションのような、聞こえる訳でもなくただそのような通知が私の神経を辿って認識する。
そうして、絵面はひどく物騒なのに、私は極楽浄土で神様から赦しを得たような、安心感に包まれる。
まるで、「よくやった」と大きな神様に抱きしめられているような。悪の根源を消したような、爽快感。
それでも、死んだのは間違いなく「私」なのに。
先ほどまでに恥ずかしくて苦しんでいた自分が居なくなり、笑顔で生きていられる。「私の中のだれか」が、酷く安堵して喜んでいる。
それなのに、いつも、ふとした時に、
今まで何も言わず沈黙していた死体が動き出すように、
涙が止まらなくなる日がある。外が雨なだけで、靴紐が解けただけで、買い忘れたものがあるだけで、理由を見つけられたように泣いてしまう。
わからないようで、私は理由を知っている。
死んだ私が、私を恨んでいる。私が私を蔑ろにしてきたことを恨んでいる。
このままつづけば、きっと、私を刺すナイフの数はどんどん増えていくのだろう。なぜなら、私が私を蔑ろにする度合いだけ、私は私を恨み、世の名に唾を吐いて、悪態をついてしまうから。私が私を嫌いになる度合いだけ、私は人を嫌いになり、人から嫌われていく。
それでも、
こういった自分のことを、
たった4文字の「メンヘラ」で片付けられたくないとおもってしまう。
好きにもなれなければ、嫌いにもなれない。
だけどいつだって、私は私しか見えていない。
だから、そういうところが嫌いなんだってば。
創作 250430
4/29/2025, 5:16:08 PM