bye bye…
阿川弘之さんの「雲の墓標」で、
特攻隊の青年が書いた手紙の最後、
「走り書きで、さようなら」
を思い出しました。
とてもこの一文が好きで、
朗読を聞いた時忘れられず何度も何度も聞き直した記憶があります。
大好き
『私は大好きよあなたのこと。
優しくて真面目で、上品でこんなにかわいい。
相手のことを思い遣って、素直で。
あなたが最低でも、いいの。
あなたが、
お化粧なんてしなくても、
かわいい服なんて着なくても、
私に怒ったり八つ当たりをしても、
あなたが人に言えないような最低だと自分で思うようなことをしていても、
あなたを好きなことに変わりないのよ。』
都内の喫茶店で、
私は呆然とその言葉を聞いていた。
目の前の、私の母より少し年下の女性は、
私に柔らかく微笑みながら言うのだった。
あまりにも優しく、柔らかく、温かく響くその声と言葉は、身体の節々を解いていく。たとえこれが商業的なものであったとしても、私はこの言葉を受け取らずにはいられなかった。
いつしか、言われた自分の容姿のことや、学歴、言葉や行動を思い出して、あれほど私はもう優しさや人の暖かさなんて受け取りたくないと思っていた。そう思えば思うほど私は、人を同時に傷つけてもきた。劣等感でいっぱいで、攻撃される前に攻撃したかった。
私は自分の敗れたストッキングを見た。
最低な私と、最低なストッキング。
今朝、ストッキングが敗れただけでもう死んでしまいたいたかった。
馬鹿にされたように人を馬鹿にして、
両親から言われた言葉を恋人に言って、
被害者の立場だったのにいつのまにか加害者側に立っていて。みんないなくなってしまえばいいと思った時には、自分が消えた方が早いと言うことに気がついていた。
私は目の前の彼女のことを見つめた。
彼女も私のことを見つめていた。
すべて、見透かしているような目だった。
誰かのタバコの副流煙が、私の鼻から肺へと流れてゆく。
彼女は、ふふふと笑い、
私を見つめていた。
『だから今度会うときは、
ありのままのあなたで会ってね。
私はそれを、心の底から嬉しいと思うのよ。
だってそれは、私を大きな愛がある人だって、
あなたが私をそう思ってくれている、
何よりの証拠だから。』
半地下の、換気の悪い喫茶店。
タバコとコーヒーと愛情が乗った澱んだ空気を、
私はいつまでも忘れていたくないと思った。
目を見ることなく「ありがとうございます」と絞り出した言葉に、感情は乗っていなかった。自分でも、どのように感情を乗せたらよいのかわからなかった。そもそも、感情を感じることができなかった。でもいつか、何ら恥ずかしげもなく、感謝の言葉を言える人間になりたいと思った。
「大好き」と言ってくれる
この世にたった1人の全てを知っている人。
私はこの人のおかげで、
この人の「大好き」という言葉が反芻して、
私の頭が喜びでいっぱいになる。
不安と悩みでいっぱいで膨張した胸が、
しぼんだ風船のように小さくなる。
私はもしかしたら、幸せになっても良いのではないか。
そんな錯覚をしてしまうほど、「だいすき」という言葉にかけられた魔法にただただ心酔していた。
叶わぬ夢
「俺ってさこれ許していいの」
午前5時のまだ薄暗い窓の前で、私はキャミソールのまま頭上に響くその声を聞いていた。私の目にはうっすら小さな血痕がのこるベッドの白いシーツが見えている。そのシーツを握る手の冷たさや唇の渇きはやけに感じるのに、ちっとも頭は焦っていなかった。ただ、シーツにある暗くて見えにくい血痕を見て、彼の肌を思っていた。彼はひどいアトピーを抱えていたため、ボリボリとかく皮膚から剥がれ落ちて現れた血がシーツに滲んでいる。毎月もらわなければいけない薬は、健康保険の手続きをせぬまま手に入れることができなかった。金もなければ時間もない。役所は平日しかやっていないのに、フリーターはいつまでも働かなきゃいけなかった。
私は彼のことを思っていた。それは心配とかそういうのじゃなくて、もっと不健康でいて虚しいものだった。
この肌荒れも、皮膚を掻いて痛んで眠れない彼の顔も、すべて私のせいのような罪悪感を感じていた。そして、私は目の前にあるシーツに染みついた消えない血痕をただただ眺めて彼を思っていた。
「なぁ、聞いてんの。俺これ許していいの」
彼の手にはスマホがあった。私のスマホだった。
彼の声は決して威圧的なものではなかった。優しい男性の声で、震えていた。ぽつりぽつりと大きな目から涙が溢れていた。流すまいと目一杯に水滴が集まって大きな塊にになり、こぼれ落ちていた。私は胸が張り裂けそうだった。
私は、許されざる存在なのか。
ならば、私は彼を許すべきなのか。
私は、彼から許されようと懇願するべきなのか。
私はよくわからなかった。私ですら数々の傷つきを、許してもらうべきか否かわからなかった。私は現状にあるすべてのことは自分が悪いのであるという立場でしか物事を見れなかった。だからそんなこと聞かれても、私が悪いという選択肢しか存在していなかった。
彼は続けた。
途中 続きます
星
今まで生きてきた中で、一度だけファンレターを書いた人がいる。漫画家だった。
秘密の場所
シンク下の、収納扉が壊れた。
支えていた金具部分と木製の扉部分が乖離していた。
経年劣化が原因だろうか。
扉は爽やかなミントグリーンの色に反して重たく、そして危なかった。ぐったりと下に落ちたまま、柔らかなフローリングにめり込んでいる。
私は扉を治すことができなかった。
正確には、できなかった、のではなく、
したくなかった。
学生マンションのこの賃貸は、
私が学生であるから許されている。
私はこのミントグリーンの壊れた扉が、
壊れたままであるならば、
私はこの賃貸から出られない。
修復しなければならないという課題が、
遂行しないことに安心感を抱いている。
現実は、そんなの関係なく終わりはやってくるのに。
一階北向き1Kの、光の入らない質素な賃貸。
その中の、人の足音が聞こえるキッチン。
壊れた扉のすぐそばにたち、排水溝を眺める。
オレンジ色の光に安心し、それが不快になった頃、
今日は雨なのか曇りなのか晴れなのかすらわからないまま、暗い朝を迎えていた。