子どものころは、20歳になれば
いわゆる『大人』になれると思っていた。
落ち着いて、余裕があって、
常に正解を導ける、そんな『大人』に。
しかし、いざ20歳を過ぎてみると、
10代のころと今の自分にさほど違いは感じない。
30歳になってみても、落ち着きがなく、
周りの同年代はみんな大人になっているのに、
どこか自分だけ子どものままで取り残されているような、そんな感覚に苛まれてきた。
結局のところ『大人』になるって何なのかと考えてみれば、
人生とは、オープンワールドにみえて、
ある程度の1本道ルートで、最低限度クリアしなければならない通過儀礼ポイントがあり、
そこを避けながら年齢を重ねても、
ただしわくちゃの子供が残るだけなのだ。
そのことに気づいたのは30代も半ばに差し迫った減災であり、もう取り返しがつかぬ。
髪が薄くなった初老の『子供』は、
今日も独り、家でビールを飲んでいる。
ぼくが君を不幸にしたい。
君にぼくを不幸にしてもらいたい。
いつかぼくら二人だけ一色になりたい。
同じ爪痕を、同じ箇所につけて。
澄んだ青空にひとつだけ浮かぶ
ふわふわと舞うモンシロチョウよ
君は風に乗ってどこへ行くの
どうか僕も連れて行って
君のように純白な羽根も
自由な心も持ち合わせていないけど
今なら大丈夫な気がするんだ
いま思えば、俺は誰かに対して、
真に心を開いたことはなかったように思う。
生きていくなかで、勤労は生活費を稼ぐためにやらなくてはならないことであるし、
独りで勤労するということはほぼ不可能だ。
否が応でも、俺以外の誰かとコミュニケーションを取らざるを得ない。
コミュニケーションが苦手、というわけではない。むしろそういった仕事をする上でのコミュニケーションは、俺は得意な方だった。
『相手が思っているであろう自分』を
把握してさえいれば、それを演じるだけで、
実に円滑にことは進む。
しかし、それはあくまで、
きらびやかな服を着て、
髪を整えて、高い時計をつけて、
身長を高くするような靴を履いて、
そんな努力や投資の上で成り立っている
『俺』でしかないのだ。
人間は、3つの『自分』があると
昔、何かの本で書いていた。
一つ目が、自分が知っている自分。
二つ目が、他人が知っている自分。
三つ目が、本当の自分。
俺は、他人に対して二つ目の自分しか
出してこなかった。
こんな俺でも、誰かに好意を抱いたことはある。
小さくてかわいらしい、
おとなしそうに見える同い年の、
16歳の女の子だった。
俺は、周りから好かれている方で、
仮にその子に告白を断られたとしても、
自分が傷つくことはないと思っていた。
しかし、体育館裏にその女の子を呼び出して
「好きです」と告白したとき、言われたことは今も忘れられない。
「貴方が何者なのか、わからなくて怖いから、ごめんなさい」
去っていくその子を、呼び止める勇気もなかった。
彼女は見透かしていたのだ。
僕の正体を。
貴方と出逢って良かった。
楽しいことも、
悲しいことも、
イライラすることも、
たまに分け合ったり、たまに共有したり。
私は私、貴方は貴方。
でも、私と貴方で、
また別の『ひとつ』になれた気がする。
私は、たぶんもうすぐ先に行っちゃうけど、
できるだけ遠い未来に、
また、貴方に逢いたい。