【ありがとう、ごめんね】
この言葉を連想させる笑顔には、何度も出会った。
力になれると思ってた。近くに寄り添えると思ってた。そしてあなたの心を軽くすることができるはずだと。寄りかかれる相手が見つかるまで、ここにいるよ。
けれど同時に、「この言葉」を敏感に感じ取る。
ごめんねと言わせることへの抵抗、罪悪感、違和感。
慌てて手を引いて、きゅうに恥ずかしくなる。自分が誰かの力になれるなんて、誰かのたすけになれるなんて、なんとおこがましいと。無力だ。
そんなことをくりかえしてここまで来たけど、近頃ではもう考えなくなった。
私よりももっとじょうずに寄り添える人がいる。近くも遠くもない適切な距離で接し、深くも浅くもない適切な言葉で、相手を笑顔にできるひとがいる。
私が下手に手をさし出すよりもずっと、安心できる方法で。
だから私は相変わらず、いつでも腕を伸ばせる距離で見守る。
それでもいいのだ、仕方ない、見つけてしまうのだから。
たった一言で相手を救えるのはいつだって主役だ。
影の努力に気づいてもらえるのも、主役の役割だ。
ただ、そういう努力に気づいてもらえないのもまた主役だ、なんて都合がいいだろうか。
【部屋の片隅で】
部屋の隅においたランプひとつで事足りるような
そんな時期を過ごしていた
テレビは床に直置きだったし、
暖房はちいさなストーブだけで、
シャワーは劣化でヘッドが取れていたし、
冷蔵庫は空っぽだった
牛乳と食パン、プルーン、チーズ…
今でいうとどんな感じに形容されるのだろう
不健康で、不摂生で、怠惰で、怠慢で
今みたいに、料理や家事を楽しんでできる、
そういう世の中じゃなかったから
21時までくたくたで仕事して、服の話や仕事の話、
新商品の話題、社内恋愛の話、…
店の同僚たちと駅の階段前でビール飲んで
電車で降りる駅をまちがえたり…
そんな毎日だったなぁ
だけど、楽しかったよ
床に寝転がってそのまま寝てしまったり、
先輩からかかってきた電話にタメ口で出たり、
家にいるのは自分だけという毎日が当たり前だったから、
いろんなものにひとりで立ち向かったし、
スマホはなかったから時間もあったし
自由で、束縛されず、休みの日は寝転んで…
孤独とのつきあいかたみたいなのも知った
でも画材屋さんが近くにないのは寂しかったな
ひとりぼっち、なんて考えなかった
みんなそうだったから、たくさん話したし
話さないこともたくさんあった
整った部屋をつくることができなかった
どこだって仮住まい、いつでも動けるように
それが二十代の真ん中くらい
【さよならは言わないで】
あなたはひとをすきだから
周囲にいる人に気を配っている
手の届く範囲にいる人に心を配っている
いつだって、それがあなたの貫いてきた強さだ
あなたの信じる誠実さ、謙虚さ
よく見ているし、よく気がつく
そう、気がついてしまう
ひとは、あなたがひとを思うほどあなたを思ってはいないことに
ひとは、あなたがひとを大切にするほどあなたを大切にはしないことに
あなたの心はいつだってかなしくて
やはりそれはとてもさびしいのだ
そんなこと言わないけど、ぜったいに言えないけど、
ほんとは、もっと私にも気を配ってほしいのだ
ひと言で何かを覆せるほど生きてもいない
笑いで相手を黙らせるほど個性もない
理屈で煙に捲けるほど瞬発力もない
力を逃していなすほどの熟練の技術もない
そんなあなたをとても好きだ
いつもすこし傷ついたような表情をしていて
いい目だね うん、いい、悪くない
【距離】
適度な距離、というのが必要だ。
離れすぎても近づきすぎてもいけない。
ということに気づいてからずいぶん経つのに、その適正な距離というのがなかなか難しい。
知り合ってまもない相手だと距離をとって会話を始めるけれど、親しみを感じたらうれしくなって一度に近づきすぎたり、相手のこわばった目にハッとして慌てて離れすぎたり、今でもそんなことばかりでがっくりくる。
ところが、そんなことのくりかえしでも、自分らしくてまぁ仕方ないかな、これもいいかなんて思うから、年齢を重ねることっておもしろい。
【微熱】
天井の格子模様がおちてくる
なにかが目の前に迫って息ぐるしくなる
夜中にそれがくると、いそいで枕元の電気をつけて
枕元に置いている無邪気な少年漫画を開いた
当時の私の枕カバーを外すと涙のあとが染みになっていて
ひとりで泣く娘を思ってこころが痛んだと母が言った
私はあわてて、よだれだったんじゃないかと笑った
母はそれを信じたのか、安堵していたし
隣で会話を聞いていた姉は自分のほうが泣いていたのに心配されないと憤った
私はひとりで泣く子どもだった
大好きな家族のだれひとり、私のせいで悲しませたりしない
どうしてなんだろう
微熱のように恍惚とした陽炎
あれはいつだったか、遠くに揺れて人影が笑う