【梨】
学生時代。
お人形みたいに綺麗な顔立ちの友だち夜ごはんを食べに行った。
電話がかかってきた時、私はひとりで部屋でなにかしらをしていて、とくに予定がなかったから気楽に指定されたその店に出向いた。
友だちは慣れた様子で店のカウンターに座っていた。
テーブルには、鮮やかなブルーのカクテル。
友だちは店長を気に入っていて、店長もまんざらではない雰囲気だった。
それはシンプルに、店を構えている大人と知り合いであることが誇らしい友だちと、そんな純粋な彼女をかわいく感じている大人の男性である店長、という位置関係で、互いにハイカウンターを挟んでそれ以上近づく気はないといったバランスだった。
それが、まだ幼かった私にもわかった。
私はそんなふたりのやりとりを画面で見ているような気分になって、すこし照れた。
安直に「すきなの?」なんて聞ける訳ない。
その時に友だちが「食べる?」と私のためにオーダーしてくれたのが「ナシゴレン」なる食べ物だった。
暗いバー、彼女の肩、よく知らない異国の、なんとなく居心地の悪い、あこがれの、ブルーハワイとナシゴレン。
【静寂の中で】
若いころには時々あった、夜中にひとりで考える時間。
みんながそうであるように夜中って大抵ろくなこと考えない。
感情的になりすぎて抒情詩になっちゃったり、言葉に情熱を引っ張り出されちゃったり、照れ臭いほど大作になっちゃったりするんだけど、
その時間に、たまった膿を存分に出して、出し切って、心をととのえてたんだろうと今では思う。
今は、体内の水がうねるのをぐっと抑えこみながら、静かに考える。
違和感には、かならず付箋をつけておくといいよ。パンくずを落として歩くみたいにね。帰る時に迷わないためにね。
わたしは「わたしは」で生きていく。
ちゃんと、譲れない理由がある。
ほら、付箋が役にたった。ここが分岐点だ。
【涙の理由】
毎日の多くのちょっとした段差に右往左往しているあいだに、
いつのまにか何十年が経ってると気づく
そして過去に見てきた先人たちの人生と照らし合わせては慄く
それでもなお、保留したまま持ち歩いてる文章題もある
いのちが終わるときに見つかるかもしれないと思うと、それはそれで楽しみではある
ただ、でも、そうはいっても、
何十年間、保留したままというのはあまりスマートじゃないから、みんな言わない
まんなかのあたりのことは、みんな言わない
そういうのをしつこいとか、執念深いとか、
言ってしまえば流行にのって突き落とせるけど、
そういうのを一途だとか、純粋だとか、
言って大事にしていいと知ってるから、言わない
まんなかを開けると涙がでると知っているから、言わない
いつかは、誰かにそう言えるひとになりたい
【時計の針がかさなって】
うっすら記憶してるだけだけど、有名なアニメで有名なキャラクターが有名なキャラクターに言ったことが忘れられない。
「君が止められるのは地球の時間だけだ(範囲に限界があるとかだった気がする)、時間を止めてもその間にも太陽系は動いているから、長く止めてしまうとバランスが崩れて地球は灼熱の星にだってなりうる」というような内容。
その時私、お箸でつまんでたたくあんを落としたわ。
時間を止めると、気温や太陽光はどうなるんだろう?どこらへんまで止まるんだろう?限界があるなら、境目にいる人たちはびっくりするんじゃないかな?
なんてのは、きっと誰もが頭をよぎったことがあるはずだけど、まぁそもそも止まったりしないしね、とたくあんをかじってきた。これからも。
自分たちがつくった装置がうまく動いて、当然真上の12のところで針はいちど重なるんだけど(だってそういうふうに作ったんだから)、それが特別な意味を持つように感じるのは人間だけだなぁ 不思議だなぁ 興味深いなぁ
【cloudy】
くもった水の中で懸命に息をしながら、彼は泳ぐ。
キッと周りを見ると、あいつは弁当なんぞ食っている。あいつは貝のようにふたをして寝ている。澱んだ流れに気づかずいい気なもんだ、陰気なやつらめ。
そんな彼を見ていて、私は思いついた。
私はそれをよく見えるように整えて、順序立てて、彼の言語に翻訳して返してみた。彼は顔を上げてそれを見つめ、いつしか親鳥にすがる雛のように後を追ってきた。会話を通じてこの汚れた水にむきあい、そのうち自分で作り上げた完璧なこの物語がおしえていることに気づく。この汚れた水から飛び立つ時がきたのだと。彼は濁った水面をさらに波立たせて、意気揚々と、空へと飛び立っていった。彼の後ろ姿は明るい光に照らされ、逆光で私たちからは表情は見えなかった。ここじゃないどこか、彼が自分に相応しい場所を探す旅に出たことを私は喜んだ。
彼の呼気で濁っていた水は、いまは美しく透き通り、穏やかに流れた。彼を惜しむ者はいなかった。私は光を通して豊かになった水の中で深く呼吸をする。
時折彼から届く手紙に目を通してから小さくちぎり、よく噛んで飲みこむ。そろそろ私が親鳥ではないと気づいてもいい頃だろうか。