【喪失感】
その言葉が当てはまる感情を私はまだ知らない。ような気がする。
大人を四半世紀やってきてもまだ出会ったことがないのか、それともその言葉より先に踏み込みすぎたのか。
いずれにしろ、そういえばその言葉を自分で使ったことがない。
落としてしまったもの、置いてきてしまったもの、その席が空いてしまった存在、取り戻せない光、枯れてしまった花、二度と会えないひとたち。
時間の経過が早まるほどに驚くほど次々消えていくから、自分の感じるそれをその言葉で表現する機会がなかったのかもしれない。失くすことに慣れていくわけでもあるまいし。
【世界に一つだけ】
星の王子さまを思い出すような…。
どれだって同じような星だけど、あのどれかひとつにぼくの花がいる、だからその星は特別なんだ
台詞までは覚えていないけど、王子さまはそのようなことを言う。
あの地平線、輝くのはどこかに君を隠しているからなのもそうだろうね。
ただの石ころ、ただの綿の布、ただの風、ただのペットボトル、ただの落ち葉。
君が触れたもの、君が愛したもの、君がきらいなもの、
とくべつな君に関わるものはすべて、
世界に一つだけのとくべつなもの。
【胸の鼓動】
…なんだろう?あの水筒は…
夜、通り道のマンションの前にたたずむ救急車。エンジンはかかっているが、ふしぎなほど静かだ。野次馬はいない。音と赤色灯に集まってきていた人々が散ってから、おそらくずいぶん時間が経ったようだ。住宅街の暗闇に、不気味なほど冷静に停まっている。
そのすぐ後方の道路に、小学生の水筒が、とん、と立ててあるのを見つけたので、ふと立ち止まったのだ。
コンクリートの上、白線のちかくに置かれることのあまりない物だ。気になって、ふらりと寄る。近づくにつれ、てっぺんにお名前シールが貼ってあるのが見えてくる。立ったままで覗き込む。
「え?」
知っている子どもの名前が、ひらがなで読み取れた。
コンクリートの道路にしゃがんで、なんども読み直す。まちがいない。友人の息子の名前だ。
「え?」
思わず救急車を見あげる。人の気配のない救急車の後ろ姿。機械音ともエンジン音ともつかない響きと、暗闇の中でただひかり続ける赤色灯。
…だめだ、これは、よくない。よくない気がする。
その友人に電話をかけようとゆっくりとスマホをとりだす。
名前、なまえ、なんだっけ、電話番号知ってたっけ、あ、アプリから、アプリの登録名は…
おちつけ、おちつけ、と自分に言い聞かせる。
「どうしたの?!」友人のおどろいた声。
「ひさしぶり。ねぇ、息子くん、どうしてる?」
なるべく平静を装って話す。
「え、息子?息子はいま家にいるよ」困惑した声。
「あ、あ、ほんと…?」
とりあえず呼吸を整えた。
「今、道端で息子くんの水筒拾ったから」
「え?!なん、え、ちょっと待って、聞いてみる」
「…」
「水筒どこやったか聞いたら『わからない』って」
「そんなことある?」と笑えてくる。
「そのあたりに行ったのは間違いないみたい、でも水筒置いてきてるなんて、しかも道端」友人の声は、信じられないという風に憤慨している。
私は笑っている。
水筒を、たまたま道路にただ置いて、そのまま忘れて帰ってきて、救急車がそのすぐそばに停まっているのを母親の友人が見つける、なんてことが、子どもの世界には時々起きる。
時々ではなく、しょっちゅう起こるお宅もある。
事実は小説よりも奇なり、はまさにすぐ隣にある。
血圧下がったわ
【踊るように】
衣裳場の娘が、劇場の舞台に憧れながら歌う歌がある。彼女は修繕に出されてきたドレスを胸に抱きながら、独り言のように歌い、躍り、無邪気な妖精の鱗粉のように光を散らす。
踊るように生きたい。
あの妖精みたいに。
【貝殻】
子どもの頃、よく砂浜で貝殻をあつめた。波のかたちに線になって貝殻が打ち上げられているところを見つけたら、自分好みの貝殻を探すのに夢中になった。
私は薄紅色の二枚貝がいちばんすきだった。白ければ巻貝も好きだった。大きいものはめったになくて、ほとんどが小さい。ハンカチに包まれて、あるいはポケットに放り込まれて、自宅に連れて行かれたそれらは、しばらくは学習机のひきだしに入れられていたけど、いつのまにかどこかへ消えてしまった。成長の過程で私に処分されたのだろう。
浜辺のあのさらさらの砂が、ぜんぶ貝のちいさな粒だったらいいな。
公園の砂場に這いつくばっているときに、ふと貝殻を見つけると、あ!と思う。
きらっとした何か、ちいさな何か、貝殻以上の存在感のあるそれ。