明日は仕事。明後日も仕事。明明後日も仕事。
疲労困憊、皆さんお疲れ様です。
子供の頃に思い描いていた大人には少し近づけましたか。
子供の頃に憧れていた大人はまだ思い出せますか。
子供の頃の純粋さはもう鳴りを潜めましたか。
子供の頃の感受性は三日月になってしまっていませんか。
そう、明日も仕事。明後日も、明明後日も。
社会のベクトルに乗り、一日2食の不眠傾向にあり、そんな中無理していませんか。
そう、私。どんな形であれ、寝てしまえば仕事が来ようとも思わずにはいられない。お疲れ様。
社会の理不尽、裏切りを裏返し、跳ね除けるそんな術があれば欲しい程に、疲労困憊。お疲れ様。
はっきりという、地震が怖い。
南海トラフ地震がとか色々ニュースに挙げられていく中で不安が積もっていく。
ネットで調べても、調べても、調べても、不安は尽きない。
家の猫はどうしよう。
まず家が倒壊したらどうしよう。
今じゃないことはわかってるわかってても、見えないからこそ、体験してないからこそ、不安がこそぎ取れない。
こうしてまた夜は朝に。
この怖さは、私だけ。なのかな。
「私の運命なんて、最初から決まってた。」
産まれた境遇と、育った環境で、こんな言葉が産まれる。
いいな、いいな。夢を追いかけられる人は。
運命とは絶対なのかな?と思う日々が過ぎていく中、自分は見てしまった。聞いてしまった。
「この会社は辞められないけどね、私夢叶えられたよ。」
これは努力で夢を、運命をねじ曲げ勝ち取ったのかと。
「運命なんて」そう願うことは、ただ認めたくなかっただけじゃないのか。
自分は聞いてしまった。
「今の子は夢を叶える環境が整っている。」
なんだってできる世の中だと。
なんでも出来る中、運命に身を委ねる私は阿呆なのか?
否、違うと信じたい。
茜、刻々と迫る夕陽に、運命が確立されていない子供の声。この子は将来何になろうと願うのか。
親の仕事に憧れ、親の背に食らいつくのだろうか。
人の命を抱え、ひたすらにただ走り抜けるのだろうか。
もしかしたら、この子も「運命だから」と夢を諦めるのだろうか。
もし、そうならその運命はきっと100通りある1つに過ぎないのかもしれないよと、私ができなかったから少しだけ若い芽に託したい。お願い。
なんてことだろう、私は今とても自分を泣かせてやりたい。
泣かせて、夜に悩めること気持ちを水に流してあげたい。
でも、心から流せるわけじゃない。傷はいつまでも痛み続ける。その鎮痛剤として、溢れんばかりの感情をながしてほしい。
大人になると、泣くのにもまた苦労する。
大きくなれば涙脆くなる、そう誰かが言っていた。
けどそれは、不穏な感情を振りかざして泣いてる訳じゃなく、なにか過去のものに縋って泣くのが上手くなるだけで、感情のままに泣くのは下手になる。
だから、私は私を泣かしてやりたい。
感情のまま、感情の暴力とも言える涙をひとりだけが知るこの場で。
泣かしてやりたい。
そこに悩める気持ちも、明日の不安も、考えすぎて死への不安も、全て流してあげたい。
目覚めるまでに、朝を待つ。
朝を待って、朝に舞う。
そしたら空でも飛べる気がして、空に舞う。
でも、足は地に着いていて、草についた露が冷たい。
でもそれなんかも気持ちよくて、朝に舞う。
目覚めるまでに、夜を待つ。
夜を待って、夜に立つ。
そしたら空には星が舞っていて、空に立つ。
でも、足は地に着いていて、星にさえ手が届かない。
でもそれなんかもどうでも良くて、夜に立つ。
目覚めるまでに、私を待つ。
私を待って、私を刺す。
傷んだ心が治る気がして、私は待つ。
でも、足は地に着いていて、地はすぐに崩れる。
でもそれなんかも気持ち悪くて、私を刺す。