【お気に入り】
「それ、アンタ小学校の頃からほとんどずっとつけてるじゃない。いくつになるまでつけてるつもりなの?」
それは、母の、何気ない一言だった。
母はきっと悪気なんて一切なく、ただ自身の持つ疑問に答えを出すべく私に聞いただけ。
ただ少しばかり、私とは感性がズレていただけ。
私は、小学校の頃からお気に入りのリボンをつけていた。父がなんでもない日に買ってくれた、林檎のように紅くて、つややかなサテン生地のリボンだ。特別高価なものでもなくて、フリルがついていたりするものでもなくて。ただ、子供の頃の私にとってそれは、ショートケーキのイチゴのような特別感を持つものののように感じられたのだ。
小学生の頃は耳の下で2つに結んでいて、その両方にリボンは位置していた。あらかじめリボンの形になっているものじゃなくて、1枚の布を自分で仕上げるものだったから、初めはずっと母に結びつけてもらっていた。どんなに朝が忙しくても、このお気に入りの紅いリボンだけは絶対につけるようにしていた。運動会なんかになると、こっそり指定のハチマキは外して、替わりにこのリボンを括りつけたこともあった。そのために毎年白組じゃなくて赤組になるよう神様にお祈りしたりなんかもした。
...初めての試練は、中学校だった。
校則で目立つ髪飾りはダメで、リボンは引退を余儀なくされた。悲しくて悲しくて、どうしようもなくて。
仕方なく、私は毎日持ち歩く手提げの持ち手に括りつけていた。それでも休日は毎日つけたし、リボンは私のお気に入りから引退することだけは決してなかった。
必死に勉強して合格した高校は、特に髪飾りへの厳しい校則はなくて、規定にあるのは「常識の範囲内」の一言。だから私は心を躍らせて洗面台の鏡を見ながら髪にリボンを結びつけていた。そんな時に放たれた一言が、冒頭の母のセリフであった。それが、次の試練でもあった。
ショックだった。
子供っぽいと、言外に言われたこともそうだったが、何よりも、いつだって私を見て目を細めながら「可愛いね」と言ってくれた母が。中学校になった時一緒に眉尻を下げて「残念だけど、しょうがないね」と悲しんでくれた母が。そう言ったのが、「この歳になって可愛らしいリボンを子供っぽくつけるのは常識外だ」と思っていることが、ひどく、受け入れがたかった。
なんとなく、感じてはいた。
周りが少しずつ大人になるのを。母が世間体を感じる性質であることも。母と、周りのオンナノコの目線を気にして、中学校に入って少しすれば2つだったリボンは1つになっていたし、それに合わせて、耳の下で括られ、時折ちらりと見える紅は頭の後ろと移動し私の世界から見えなくなった。
結局、私からお気に入りを、好きを奪うのは、人であった。
中学校の規定とか、そんなのではなくて、周りの目線と雰囲気と。そういう、縛られたものでは無いことが、余計に私を苦しめた。
規定は私に「絶対」を押し付け、高位の存在として私を管理した。逆らうことも、無視することも、誰も彼もが許されなかった。
だが、本質的に私からお気に入りを奪うのは、そういうものではなかった。
本来無視しても良くて、私とは対等どころか関係が一切ないと押し返しても良いものだった。「誰がなんと言おうと知ったこっちゃない」そう言い切れる人が一定数いるのも知っていた。
…で、あるならば。もしかすると、お気に入りを奪った、否、手放したのは自分だったのかもしれない。
私は「自分の社会の立ち位置」と「お気に入り」を天秤にかけた。その事実を受け入れるのが嫌で、他人のせいにしているだけで。
そんな醜い自分が存在していると分かったら、もうダメだった。
かつて憧れた、イチゴの似合う可愛くて無垢な少女には戻れないことが、自分でもわかった気がした。
少しずつ、少しずつ。
ただそれは決定的に訪れる。
私たちは大人になるにつれ、天秤にかけるものを大きくしていくことを余儀なくされる。
社会から逸脱するのは怖くて、いつのまにか自ら自分の大切なものを秤にかけて失くし、それを被害者ぶって嘆く。
それが、私にとっては「お気に入り」であっただけ。
ただ、それだけ。
【巡り会えたら】
彼と別れて早1ヶ月。
大学2年生の時の花火大会から付き合って、気づけば4年も付き合っていた。社会人一年目が終わる頃には同棲なんかも初めて、24とまだ少し若い方だけど、結婚だって視野に入れていた。
...彼の方は、違ったのかもしれないけれど。
きっかけは、きっと本当に些細なことだったの。
何があってこんなことになったんだってくらいくだらないことで、言い合っているうちにお互いが少しづつ溜めていた鬱憤をぶつけるようになって。喧嘩はこれまでもしてこなかったわけじゃない。でもいつも最終的には互いが謝って、笑って終わらせてた。
なんで今回はそれが出来なかったの?
あの時は別れてもいいって、別れたいって本気で思ってたのに、今はなんでこんなに泣きそうになってるの?
何度も何度も捨てようって思った写真立て、なんで今でもテレビの横に居座ってるの?
写真立てだけじゃない。薄い青の歯ブラシも、お揃いで買った猫のしっぽが持ち手のマグカップも、「これからも一緒にいような」ってはみかにながらくれたシルバーネックレスも。まだ彼がこの家に住んでいた時と同じ場所に置いてあった。きっとしばらくはそこにいるのだろう。
会社に行った時。同僚とランチに行った時。友達が傷心中の私を気遣って誘ってくれた合コンに行った時。
どんなときも無意識に彼と似た背格好を見つけては心を踊らせて、違うってわかった瞬間心が沈んでいた。
いつか。いつか、どこかで、巡り会えたら。
復縁しようだなんてことは言わない。
ただ、一目。貴方を見たいだけなの。
一目見たら、貴方のことを忘れられるような気がするの。
この蠢く気持ちを、解き放ってあげられる気がするの。
ねえ、いつか、巡り会えたら───。
【きらめき】
本でね、読んだの。「夜空」っていうのは、青い空にキラキラした「お星さま」っていうのが光っていて、見る人の目を引きつけるものなんだって。人にとって「夜空」も「お星さま」も昔から身近なものだったんだって。
それでね、わたしもパッと上を見あげたの。でも、時間帯が良くなかったのか、お星さまは見えなかったみたい。...あれ?不思議!本には「夜空」はお名前の通り、夜にしか見れないって書いてあるのに、夜には見えないの...。次の日試してみたらね、お昼には見えたんだよ!水色に白?黄色?っぽい光がふわふわしてて、ゆらゆらしてるの!いつも見てる景色のはずだけど、お名前を知ったらもっと綺麗に見えてきたわ!
わたし、「夜空」がだいすきになったわ!
いつもの夜空も綺麗だけど、お船が通りかかってお砂に影をつけた時なんてもっと素敵!
たまにお空がくもり?っていう時には「お星さま」のきらめく姿は見られないけど、毎日夜空を見上げるのがすきなの!
「お星さま」をすきなってからね、きらきらしたものもすきになったの!きらきらした貝殻、ツヤツヤしたおねえさまの尾ひれ。お誕生日には、とにかく「きらきらしたもの」をほしがったの。
そうしたらね、ちょっと前までは分からなかった、「恋」も分かるようになってきたのよ!本にはお胸が「ときめく」って書いてあったのだけど、前まではそれが全然分からなかったの。でも、最近、会うとお胸が「きらきら」する人に会えたの!今度一緒に夜空を見るって約束までしたのよ!
わたしもあの人にとって「きらきら」した存在になれるかしら?
まずはおねえさまに尾ひれを「きらきら」にする方法を聞いてみなくっちゃ!考え始めたら、ますます心がきらめきで溢れてきたわ!
【些細なことでも】
ガタンゴトン。はァー。カタカタ。ガサガサ。
電車の音。誰かのため息。スマホから鳴るキーボード。身じろきして擦れた衣服の音。その全てが私の神経を逆撫でする。
世の中、無音な空間は自然には存在しない。ただみんな、生まれた頃からの境遇に慣れきって、気にしなくなるだけ。
私には、そんな普通の、みんなからすれば些細な音が気になって仕方がないのだ。耳が良すぎて音を拾いすぎるのか、それとも神経質すぎるからなのか。他の人の聞こえた方など分からないので、生まれて17年、悩みは解決することなく、私の神経は常にすり減るばかりであった。
日頃はお金をかけたイヤホンを着用しているのだが、私の苦しみをお年頃ならではの「五感が鋭い俺かっこいい」の症状だとでも思っているであろう姉が取っていってしまった。何に使うのかは知らないが、朝準備している時に「ごめんー!今日イヤホン借りるわ!」と言って、返事をする間もなく家から出ていってしまった。
...もうどうしようもないことを嘆いたって仕方がないし、そんなことに疲れを感じる余裕は今の私にはない。
あと二駅。頭の中はズキズキと言えばいいのか、ぐるぐると言えばいいのか、強いて言うならばその両方の痛みが蔓延している。
...誰かにとっての些細な物事は、誰かにとって、大きな影響を与えるものである可能性があるってことを、姉を筆頭にたくさんの人に理解して欲しいものだ。
【心の灯火】
あなたにとっての灯火とは、なんだろうか。
「灯火」とは、まあ色々な解釈があるのだろうが、ここでは「闇を照らす明かり」とでもしておこう。
あなたが、道を迷った時、道を照らしてくれたのは何があったからだろうか。
親しい人の存在、励ましや応援の言葉。まあ様々あるだろう。
そんな中、私のあげる「心の灯火」は、「誰かの挫折」だったかもしれない。なんと不謹慎なことか、と思うだろうが、何気に人生そんなもんだったりする、と私は思うのだ。
いつだって上を見て、憧れて強くなって。隣を見て励ましあって。そんなことばかりじゃあないんじゃないだろうか。下を見て、心の安寧を見出したことだってあるはずだ。
私にとって1番苦しい感情は、いつだって「焦燥感」だったように感じる。「焦燥感」をかき消すのに、下を見るということは最適だったりする。焦燥感をかき消し、安定した自分でいることは、成功に、安心に繋がると、私は思うのだ。
どうだろうか。下を見て安心している自分を客観的に見て、惨めさを感じたことは無いだろうか。自分は小さくて、愚かしく感じたことがあるのでないか。
そんな人にこそ、届いて欲しいと思う。
上ばかり見る必要はないし、誰かの挫折で心を安らげるのも、生きていく上で必要な強さであり、恥じる必要はないということを。この考えを、一時的な「心の灯火」にしてみてはどうだろうか。