もしこの職業についていなかったら、普通に働いていたと思う。そのまま建設会社に就職して、必要に駆られて資格を取ったりして、それなりに家族を食わせてやることも出来たと思う。結婚もしているかもしれない。新しい家族が生まれているかもしれない。それはそれで幸せな生活を送れていたのかもしれないな、なんてことを年に1回考えることがある。
でも毎回同じ結論に辿り着く。
それは俺であって俺じゃないのだ。
隣にあいつが居ない、あいつに名前を呼んでもらえない俺はもはや俺とは呼ばない。
名前の違う何かだ。
時々滅多に呼ばれなくなってしまったその名が恋しくなることもあるが、時にはからっと快活に、時には甘く掠れて呼ばれるなんの捻りもない渾名が愛おしい。
四半世紀以上のお付き合いですからねぇ。
そりゃもう、考えられませんよ、無いなんて。
「……何ニヤニヤしてるん?」
「いやこの仕事してなかったら何してんのかな俺って」
「それのどこにニヤける要素あるん?」
「おたくは?お前はこの仕事してなかったら何してた」
いきなり振ってくるなと怪訝そうな顔をしながらも、そうだなーと考えてくれる。そういうところやけに律儀なんだよな、昔から。だから余計に俺が調子に乗ってしまうのだ。
「うーん、具体的には思いつかんけど俺ちゃうんとちゃう?そいつ」
「いやいやお前の話してるんやぞ」
「やって前から言うてるけど俺はあんたが居らんかったら居らんもん。顔が一緒なだけで別のやつやろそいつ」
ケロッとした顔で奴は言ってのけた。自分がとんでもないことを言っている自覚がこの天然にはあるのだろうか。
「んで、なんであんたはニヤニヤしてたん?」
そう訊ねられて、思い出した。
俺も同じ穴の狢だってことを。
「……俺もおたくといっしょやわ」
「どういうこと?」
なんて絶対言ってやらへんけど。
相対的存在
最近、あいつは涙もろくなった。
本人曰く『歳のせい』らしいが、俺は知っている。
出てきただけだろう?泣き虫なあの頃のお前が。
俺たちが不甲斐ないせいで、心の奥底に閉じ込めることしか出来なかったあの子が、ようやっと安心して出てこれるようになっただけ。それまで何年かかったのだろう。
「あかんなぁ…」
あかんくなんかないよ。今まで我慢した分泣けばいい。
もう俺たちはその涙を拭ってやれるから。
らしくない、なんて言って止めようしないで。
俺はそれが一番お前らしいことを誰よりも分かっているから。
やから、泣いて。
その分笑わしたるから。
雨男や雨女なんて居ない。もし本当に存在するなら干ばつの酷い地域に連れて行けばいい。そうしたら砂漠もオアシスに早変わりだろうし、農作物が不作の年なんてないはずだ。 でも実際には不作で値上がりもすれば、数年前は綺麗だった川だって枯れる。人間如きに天気などどうにか出来ることなんてない。
今でももちろんそう思っている。思ってはいるのだが、
不覚にも雨がしとしとと降り続いたとき、さめざめと泣く村上の姿が脳裏を過ぎったのだ。
そんなところ見たこともないのに。
どちらかと言えば、からっとした晴れ空が似合う男だと思う。
竹を割ったような性格で、熱血で快活。灼熱の太陽のごとくアグレッシブ。ニカッと笑った顔が眩しくて、近づけば焦がされてしまいそう。というのが表向きで、実際の村上さんは穏やかだ。激情的になることはまずない。周りがアホなことをしているのをニコニコぽやぽやして見守っている。陽だまり、みたいな。あの顔を見てると気が抜ける。
俺はある程度気を張っておきたいタイプの人間なので仕事前は極力見ないようにしている。
何が言いたいかと言うと、あいつのエネルギーというのは本来そこまで強くないのだ。
みんなを照らせるくらいの力はある。白熱電球の温かみのある光。でもそれを出力MAXにしてミラーボールみたいにギラギラ輝いてるのが普段の村上だ。
困ったことにタフだから、誰も無理していることに気づかない。鈍感だから本人すら気づいていない。
俺にはそれ分かるからな。作り笑顔って。普段から作ってたら、バレへんと思ってるんかもしれんけど。
エネルギーの慢性的な過剰消費に、他人からの悪感情が巣食ってガス欠を起こしているというところだろうか。
実はナイーブなところ、もう知ってる人間大分減ってきてるからな。
ガラスのハートではないが、決して壊れない訳じゃない。分かってるけど、普段のお前を見ているとつい忘れそうになる。
せめて俺だけはちゃんとせなあかんのやけど。
『向いていない』『浮いている』『お前が足を引っ張っている』『お前が辞めたら良かったんだ』
画面の前で、そう言われて『ごめんな』と謝っているお前を見た時、腸が煮えくり返るかと思った。分かっている、全部ジョークだ、画面の中で行われることは全てフィクションで、良いところモキュメンタリーだということも。でも、その顔が強ばっていることに隣に座っている奴が気づいていないことに激しい怒りを覚えた。
そこで何となく、この回がいつ撮影されたものなのか察した。
あの日だ。この土砂降りでもない、でも延々と降り続く小雨が降り始めた最初の日。 東京には今も雨が降り続いている。
少し換気のために窓を開けていたからか雨音が煩い。ヒナのカラカラとした笑い声が頭の中を空回った。
心が冷えていくような気がした。
ーーどうして休みの日まで、お前のこと考えなあかんねん。
俺しか気づけないのならば、俺が動くしかないだろう。
今あいつがどこにいるかマネージャーから聞き出し現場に向かう。仕事中だと言われても構うものか、こっちが最優先事項だ。
「あれ!?なんで、おるん?」
答えず、目が丸くなった男の手首を掴んで使われていない部屋に入れる。
「どうしたん……」
「お前が泣いてるような気がした」
「なんでそれでヨコが来るんよ」
眉を下げてへにゃりと笑う。どこか泣き出してしまいそうな、困っているようなそんな表情。俺は今までその顔をどれだけみただろう。
「御足労ありがとうございます。でも泣いてへんよ、無駄足やったね」
「泣かれへんの間違いやろ」
「もう泣かへんの間違いや。泣くなんて俺らしくないやろ」
どうしてもって言うんやったら、お前が代わりに泣いてくれとケロッと、でも少し震えた声が伝える。巫山戯るなと思った。
言いたいことが山ほどある。らしいらしくないなんてない、どんなお前だってお前だ。それに、
「泣くのが1番お前らしいやろ」
「…………」
誰に何を言われたか分からないが、誰よりも長くて濃い時間を過ごして来た俺がいうのだから間違いない。
人生の過半数お前の泣き顔を見て過ごした気がする。陽だまりのようなこの男は感情がとぼしいというか、すぐに涙腺に来てしまうのだ。感情表現のバリエーションがない。
悲しいも寂しいも怖いも悔しいも嬉しい時ですら涙を目に溜めた。でもある時から自分の事で涙を流さなくなった、人のことでしか泣かなくなった。でもそれは傷つかなくなった証拠にはならない。
「代わりに泣いてくれ?甘えんな、ちゃんとお前が泣け。よほど泣きたくないんかもしれへんけど、ヒナの代わりなんておらんねん。ヒナがちゃんと悲しまないとその悲しみは残ったまんまや」
「……余計、悲しくなるやん」
あと一押し。
「悲しなったら、寂しなったら傍におったる。吐き出したいなら全部聴く。お前の代わりは出来へんけど、共有することは出来る」
「いつも傍におらんくせに」
ボソリと刺すようにつぶやかれた言葉は甘い毒。
「いつもおってほしいん?」
「っ、別に……出来ひんこと言うなってことや」
「出来るよ。やからちゃんと口に出して?『そばおって』ってたった5文字やで」
「狡いわ………なんでそんなやさしいねん、今日」
「俺にはお前が『要る』からな」
「見たんかあれ。それで来たん?ふふっ、別にそんなんで辞めへんよ」
また笑う、違う見たいのはその顔じゃない。
「心配症やな」
「ここまで心配するのはお前やからじゃ」
「俺辞めそうに見える?心外やわ」
顔が歪む。堪えなくてもいい、ここにはお前が泣き虫なことを知っている俺しかいないのだから。
「……ここまで鈍いか、そんな顔してるからや」
「そんなって……そんなに酷い?」
「現状俺しか気づいてへんけどな」
「……あんたがいうんやったらそうなんやろなぁ……わかってるんや。冗談やって、この世界何年やってると思てるん。でもなぁ、………なんか妙に残ってもうてっ」
段々と言葉が詰まっていく、ぽろぽろと張り付いた笑みが剥がれ落ちていく。随分とこびりついていたみたいで思ったよりも時間がかかった。それだけ放置してきたってことだ。
「ごめんなぁ、おれもその時否定せえへんで」
「なんで謝るんよ、悪ないやん……こんなことでくよくよしてもうてる俺があかんわ、話半分で聞いとかんとあかんのに」
また涙を引っ込めようするので、頬を抓った。
「あにすんの」
「俺の言うことは信じられるんやろ?」
「あにをいまはら……」
「そやったら俺以外を信じひんかったらええ」
「そんなむひゃな……」
「お前は『要る』絶対要る。やから離れようなんて許さんからな。1回しか言わへんぞ、俺らはお前の存在に救われてるんやで」
「いひゃいいひゃい!わはったはら、はなしてえやぁ!」
痛みからか生理的な涙が滲んだ。やっと泣いた。もうなんやのあんたと目を真っ赤にしながら笑う。笑い泣き。
うん、やっぱりその顔が見たかった。
その日、二週間ぶりに東京の雨が止んだ。
(空が泣く)
作者の自我コーナー
いつもの。最近泣き虫なあの子に向けて
初恋を拗らせている。正確に言うと初恋は実らないと聞いたことがあったので、他に恋をしていた。そっちは拍子抜けするほどあっさりと叶い、あっさりと終わった。
そりゃそうだ、あいつへの恋を初恋にしないためのツナギに過ぎなかったのだから。
今考えると相当女の子側に失礼なことをしている。
それも懲りずに何回も。間違いなく女性の敵だ。
でももうご安心ください、第11回目の彼ヘの恋をもって一途になることを決めました。
この恋を終わらせようと思います。
そばにいれるだけで十分ーーなんてお前ほど出来たことは言えへんけど、散々振り回したことの贖罪は受け入れようと思う。
きっと俺が望めばお前は全て与えてくれる。身体も心も、命でさえも。でもそれは俺が望むからでお前の意志じゃない。
それを10年くらい前の俺は、自分だけの特権だと思っていた。お前を俺は好き勝手出来ると。
でも気づいた、お前から望まれたことは何もない。
もともとあの男にはそれほど欲がない。パブリックイメージが独り歩きしているだけで、本来人の為にしか生きられない奴なのだ。俺が作った設定だったのに、独りで歩かせている内にすっかり抜け落ちてしまっていた。とんだ役者だ、演出していた人間に、演出させていることを忘れさせるなんて。
でももう俺はヒナじゃないとダメなのだ。俺を欲しがってくれないと嫌だ。相思相愛ってそこ含めやろ。
互いが互いを求め合ってこそやろ。重い?なんせ20数年物でしてね、さらに重くすることは出来ても軽くはならない。
でもそれはおたくもそうやろ。一蓮托生って言うたもんな。
そこに漕ぎつけれたら御の字って?全然足らん。
俺は諦めるつもりは無いからな。
この恋を終わらせる前に絶対に今世でお前を手に入れる。
『本気の恋』ってやつに今度こそ向き合って、もう一度初恋を始めよう。
(ジンクスなんぞ打ち破ったるわ)
作者の自我コーナー
いつもの。負けず嫌いの彼はきっと運命にもジンクスにも打ち勝つのだろうな。
カレンダーなんていつもは気にしないのに、時間に追われているみたいでカウントダウンなんてしないのに。
一日一日ごとに塗りつぶされていくマスが愛おしくて仕方がない。黒に、あんたの色に染められていくみたいで。
逢えない時間がーーというのはあながち嘘ではないらしい。
そんなことを俺が考えているなんて知ったら、らしくないと笑うだろうか。馬鹿笑いしてるあんたの顔が浮かんで、またマス目を塗りつぶした。
(はよ、あいたい)
作者の自我コーナー
いつもの。珍しく付き合ってます。
最近雰囲気が柔らかいですよね。
久しぶりに更新しました。しばらく連続更新したいと思います。