まだ夏の暑さが残る九月の初旬。
私は決まって毎年、ここに来る。
墓石の周りを掃除して、花を入れ替え、ちょっとしたお供物を置く。最後に水をかけてやればもうおしまい。
今日は、夫の命日だ。
「久しぶり。今年も来たよ」
夫が亡くなって五年。
数週間後に控えていた三度目の結婚記念日は、祝われることなく終わってから、早五年。
墓石に刻まれた夫の名を見る度、もう彼はこの世にいないんだと思い知らされる。
寡黙な人だった。
不器用で、ちょっと強面。友達からは「本当にこの人大丈夫なの?」と心配されてしまうほどだった。
でも、私は知っているのだ。
彼が誰よりも優しい人間だということに。
記念日は律儀にカレンダーに記入しているところとか、毎朝私の為にコーヒーを淹れてくれるところとか、ドアを開ける時は必ず私を先に入れてくれるところとか。
全部、私しか知らないのだろう。
犬や猫を触る時、密かにふっと笑う表情が好きだった。いつの日かビニール袋を猫と見間違えてしょんぼりしていたことあったなぁ。
案外甘い物が好きなのも、可愛らしいと思ったよ。
だから彼が、車に轢かれそうだった子供を庇ったと聞かされた時は、彼らしいな、と思った。
悲しくないと言ったら嘘になる。
この気持ちは今でも言葉にできない。
夫との思い出を振り返ると、自然と涙が出てくるのだ。
それでも、私は今日という日を生きていかなければならない。
「でも、ちょっと寂しいな……」
あぁ、そういえば、もうすっかり蝉の声が聞こえなくなった。
季節の移り変わりは随分早い。
毎日の時の流れなんかはもっと早い。
私がいずれお婆さんになって、もうここにも歩いていけなくなってしまった時。
私は彼との記憶を覚えていられるだろうか。
忘れたくない。
夫のことを忘れたくない。
でも、忘れてしまうかもしれない。それが怖い。人生なんて、そんなものだろう。
そう割り切れたら、どれだけ楽だろうか。
「もう少しだけでいいから、一緒にいたかった」
『時を告げる』
海がよく似合う子がいた。
真っ白な肌に、海のように美しい瞳。透き通る黒い髪の毛が風に靡いて、今にでも波に攫われてしまいそうな、そんな子だった。
彼女は、体が弱くて滅多に外に出られなかった。いつも寂しそうに窓の外を見ていたから、僕は彼女の代わりに外に出た。
道端に咲いていたたんぽぽ。
公園に落ちていたどんぐり。
浜辺で拾った貝殻。
僕は彼女に会うたび、外からのささやかなお土産を渡す。どんなにちっぽけな物でも、彼女は嬉しそうに喜んでくれた。
彼女は貝殻を耳に当て、目を瞑る。
「何してるの?」と聞いた僕に、彼女はそうっと、「こうしていると、海の声が聞こえるの」と言った。
不思議に思った僕も貝殻を耳に当ててみたんだ。でも、海の声なんて聞こえやしなかった。
「僕を揶揄ってるんでしょ!」
「ふふ、そんなことないよ」
彼女にだけ聞こえて、僕に聞こえないことが悔しくて、僕は何度も貝殻を耳にあてた。
結局、海の声なんてちっとも聞こえなくて、彼女はそんな僕をみてくすくすと笑っていた。
今思えば、彼女との会話は、これが最期だった気がする。
静かに眠りにつく彼女は、まるで真冬の海のように冷たい。僕の心は、深海に沈む沈没船のように悲しさと寂しさが入り混じっていた。
彼女の側にそっと置かれている貝殻を、僕は手に取る。
「…やっぱり、海の声なんて聞こえないじゃないか」
海がよく似合う子がいた。
海の声が聞こえる、不思議な子だった。
もう二度と会えないけれど、僕は彼女に逢いに、今日も海に行く。
『貝殻』
貴女と見た星空、プラネタリウム。
突然、プラネタリウムに行こうなんて言うから一体どうしちゃったんだろうって思ったよ。
貴方とお付き合いを始めて、一年と数ヶ月。
性格も何もかも真反対な私達。
喧嘩も沢山して、その分仲直りも沢山した。
不思議と、別れたいとは思わないんだよね。
貴方となら、一生を共にしたいって思えるの。
外に出かけるのが好きな貴方。
家の中でまったり過ごすのが好きな私。
ゲームをするのが好きな貴方。
本を読むのが好きな私。
ショートケーキのイチゴは最初に食べる貴方。
イチゴは最後に残しておく私。
「珍しいね、プラネタリウムなんて。星とか興味あったんだ」
って言った私に、貴方はなんて返したっけ。
おかしいなぁ。
部屋中に広がる星空は、そりゃもう圧巻で、静かな空間に広がる美しい星達は、一つ一つがきらめきを宿している。
周りに座っている人々は勿論、隣に座っている貴方も、そんな星空に魅了されていた。
ただ、私だけは、きらめく星達よりも、そんな星達を見つめている貴方の瞳に釘付けになってしまった。
夜空に輝く星達よりも、もっとずっと綺麗だと思った。
あぁ、今の私の瞳も。
貴方という星に魅了され、きらめいていることでしょう。
『きらめき』
「前髪切ったんだ、いいじゃん」とか
「新しいリップにしたんだ、可愛い」とか
「そのネイル似合ってる」とか
どんな些細な事でも気づいてくれる貴女が好きです。
いつも店員さんに「ご馳走様でした」
って言うところも、私が隣にいる時は必ず車道側を歩いてくれるところも、私が泣いていたら何も言わず側にいてくれるところも、全部大好きです。
貴女のさりげない優しさに気づくたび、私は貴女を好きになってしまう。暇さえあれば貴女のことを考えてしまって、勉強なんて手につかない。こんな気持ち、人生で初めて。
だから
貴女に彼氏が出来たって、言われた時、
涙が止まらなかった。
おめでとう、って本当は言いたかったの。
でも、口から出てきた言葉は、形にならずに溶けてしまって。
泣きだしてしまった私を、貴女は何も言わずに抱きしめた。
察しのいい貴女のことだから、私の気持ちにも気づいていたのでしょう?
お願いだから、ごめんなんて言わないで。
私の気持ちに、気づかないふりをして。
貴女に恋をしてしまった私を、どうか許さないで。
でも、本当は
貴女に好きだと伝えたかった。
『些細な事でも』