僕が6歳の頃、夏の家族旅行で軽井沢に行った。避暑地として高い人気を誇るだけあって、僕たちが暮らしている盆地とは同じ日本でもまるで違う気候のようだった。
軽井沢ではレストランやカフェを巡って、夕方には小さな河原で水浴びをした。当時は熱心な昆虫好きだったため、必死にヤゴやゲンゴロウを探していた。
「お父さん、何か見つけた?」と僕は聞いた。
「何にも」と父は言った。
僕は虫あみを伸ばして、網で水草の下をかき混ぜた。こうすることで、驚いた生き物が網の中に入ってることがある。
「あんまりやりすぎるなよ。ここは大事な生き物の住処なんだから」と父は言った。
「分かってる」と僕は網でガサゴソ掻き回しながら答えた。
結局、小さな稚魚やサワガニしか引っかからず、あっという間に日は暮れてしまった。
夕日で浮かび上がった山の稜線は僕に捉えどころのない無力感を感じさせた。
「また来ようね」と僕は不貞腐れながら言った。
「もちろん。約束だ」と父は笑顔で言った。
春光輝く4月の流れも、桜花の散り際のようにあっという間だ。公園でその濃い赤色の花弁を知らしめていたツバキは見るも無残に花の軸ごと地面に落ちてしまっていているし、梅の木は既に新葉を生やし次世代への蓄えを始めている。モクレンやハクモクレンはその大輪の花弁を落とし、桜に隠れその栄華の終わりへと向かっている。一方で、ヤマブキは5枚の整った花弁をはつらつに咲かせ、ツツジはそのピンク色の花と燃えるような赤色の花で街路を華やかにさせ、ハナミズキは静としての美しさを演出している。毎年この時期になると、目まぐるしく移り変わる草花のそのなんと短く儚いことかに生命の宿命を感じられずにはいられない。
ここから先僕たちはかなりタフにやっていかないといけない。今から臨む世界というのはこれまで居た世界とはまるで違った法則やルールで出来ている。そして、そんな目まぐるしい変化が起きる一方で、僕たちの体はろくすっぽも変わってはいない。時間は僕たちをどこかへ連れて行ってはくれても、僕たち自身を変えることは無い。だからこそ、大事なのは変化が迫られているという強い自覚とそれに伴った具体的な行動だ。これを忘れてしまえば、あっという間に時間の波に押し流され、二度と地上に上がることは出来なくなる。チャンスは1度きりでそれは紛れもなく今なんだ。そんなシビアにやってかないといけないのかと不満を持つかもしれないが、残念ながら人生はシビアだし、これからその強度は加速していく。そのためにも、常に見るべきは今であり、考え行動するのも今だけなんだ。もう一度言うがチャンスは一度きりだ。今なんだ。
「こう肩を並べてピクニックなんてしてると、何だか昔絵本で読んだ仲のいい恐竜の話を思い出すよ。凄くあたたかい話でとにかくイラストが可愛かった」
「私も昔読んだアザラシの絵本を思い浮かべていたわ。アザラシの夫婦が氷の上で肩を並べて壮大な海を眺めているの。話しの内容は詳しく覚えていないけど、とにかく凄く心温まるお話だったわ」
「2人とも絵本を投影してるとは驚きだね。やっぱり小さい頃の記憶っていうのは大事なんだろうね。あの温かさはあの年齢のあの環境だけでしか味わえないものだよ」
「本当にそう思うわ。私たちにも子供が出来たら、沢山読み聞かせしないといけないわね」
「そう考えたら興奮してきたな。何にしようか、やっぱりはらぺこあおむしは抑えておきたいね」
「そうね。でもやっぱり心が温まるようなお話が良いわね。今の私たちのような懐かしさを、将来思い返して浸れるような暖かいお話」
バードウォッチャーにとって春という季節は最高だ。花鳥風月という言葉があるように、花と鳥の相性は最高で、特に桜の蜜を吸っている場面なんてのは本当に美しい。今日撮影したヒヨドリが桜の蜜を吸っている写真なんかは今後半年間は壁紙にするだろう。ソメイヨシノやエドヒガンなどの花が先に出る桜は鳥が映えやすいし、ヤマザクラやオオシマザクラなどの新葉が同時に出る種類のさくらは全体の色調が整う。弁当箱に緑色の物を端に入れるみたいにね。