「腹を割って話そうぜ。もう、ここまで来ちまったんだ。今さら気にすることなんて、俺らがあとどのぐらい運命に縋りつけるかって点だけだ」
「確かにそうかもしれない。こんな状況だ。もう何を取り繕ったって、何も残らない。でも、何処か俺の心の奥底で、完全にさらけ出せない部分があるんだ。それを見せてしまうと、君を幻滅させるかもしれない。あるいは、その自覚は僕にとって危険な類いのものかもしれない」
「たとえお前が何を出したって幻滅なんかしないぜ?蛇の肝でも、カバの糞でも、なんだって出せやいいさ。確かに、そういうものに向き合うのは多少の傷は受けるかもしれない。でも、そのまんまにしたって、それはそれで危ないものに変わりない。むしろ、それは暗闇の中でより手をつけられないものへと大きくなっていくものだ。ちょうどいい機会なんだ。こんな状況滅多にないぜ。いいから、さらけ出しちまえ」
「そうか、これは僕の中で大きくなっているのか。そうかもしれないな。分かったよ。腹を割って話そう」
「そうこなくっちゃな。それで、お前の中にあるものはなんなんだ?」
「実は……なんだ」
「これは、想像以上のものだぜ。でも、これでお前はそれを吐き出せた。これ以上、そいつが悪さをすることは無いさ。しかし、扱っているものが少々微妙だな。それが力を蓄えないとしても、これで綺麗さっぱり無くなりはしないだろう。これは難しい問題だ」
「そうだろ?確かに吐き出してスッキリはしたさ。しかし、それだけだ。事態は何も変わっていない。入れ歯の虫歯が治ったようなものだ。依然、僕自身が求めている実感は手の届かないところにある」
「事態は変わってないかもしれないが、俺らの今立たされている状況から見れば、俺ら個人の枝葉末節の問題なんて気にする必要はないさ。まあ、聞いておいてなんだがな。気楽に行こうぜ」
「いつもこうだ。僕の開示にはなんの意味があったのか、教えてくれよ」
「スッキリしただろ?男ってのはスッキリしないと生きていけない生き物なんだぜ」
「やれやれ」
永遠の花束なんて僕は望まない。
花も人生も終わりがあるから、美しいのである。
そして、美しさも比類なきものである必要がある。
花も人生もいずれ菖蒲か杜若。どれかひとつだけなんてことは無いんだ。
胸を張って生きるといいさ。
その終わりを意識的に無意識に封じ込め、表面的な今を味がしなくなるほど咀嚼する。良い生き方だ。
いや、いいんだ。初めから、理解して欲しいなんて思っていない。そもそも、他人に本当の意味で理解されるなんてことは起こりえないんだよ。イソギンチャクの見ている世界とアメフラシが見ている世界が違うように、僕が見ている世界と他人が見ている世界は違う。仕方ないことなんだ。今さらそれに文句を言うつもりは無い。僕は、この20年間で自分の考え方や生き方が大方の人間とは相容れないということが分かったんだ。やっと、20年かけてそれだけが分かってきたんだ。だから、もう放っておいてくれ。
亡くなった姉の家に遺物の整理や部屋の片付けをしに向かった。姉は都内の駅近くにあるアパートに住んでおり、家からの徒歩数分の美容院で働いていた。昔から、色んな人の髪型に興味を抱き、よく僕をマネキン代わりにして色々な髪型を試していた。
アパートは密集した住宅街の隙間にあり、3階建ての細長い形をしていた。姉の部屋は2階にあり、壁に同化してるみたいにドアはくぼんでいた。
中に入ると、ムッとした独特な香りが押し寄せた。散らかった服と片付けられていない容器、やけに強いディフューザーが混じった匂いだった。少しすると、外気と混じり薄くなっていった。
早速部屋の整理を行い、必要そうなものは用意していた袋に入れていった。服を手に取るたびに、その服を来ている姉の姿を想像した。姉が上京してから、一度も会っていなかったため、僕の想像する姉は実際より5.6歳若かった。
部屋は1LDKだったため、そこまで時間はかからなかった。
一段落して、テーブルに座り持参した水を飲んだ。泥水を薄めたような味だった。こうやって、部屋を見渡してみると先程まであった生活感は綺麗さっぱり無くなっていた。どこか僕は彼女の存在の足跡を消しているかのような、そんな場違いなことをしているのでは無いかという一抹の不安に駆られた。
休憩を終えると、洋室のデスク周りに取り掛かった。ヘアカタログ雑誌があらゆる場所に置かれ、挟まれていた。それらを1枚ずつ丁寧に引っ張りだしていると、その間からひとつの封筒が床に落ちた。
拾って見てみると、「5年後の私へ」と書かれていた。本当は今開いてしまうのは良くないが、その時には正常な判断は出来なかった。
封筒を開けると、丸みを帯びた幼い文字で埋め尽くされた便箋が1枚入っていた。恐らく、中学三年生の頃に授業で書いた成人の自分への手紙だろう。
「5年後の私へ
なんか、授業で書けって言われたから書くけど、あんま書くことないかも。まあでも、一応みんなは夢とか書いてるらしいし、私も夢を書くね。
改まって書くことでもないけど、私は美容師になりたい。いや、なる。なれるだけの努力は誰よりもしてる。そして、誰よりも好きな自信がある。だから、仮にこれを読んでいる時に美容師の専門学校とか、もしかしたら美容師になってたりしたら、今の私に感謝して欲しい。
私がんばってるから。
もしかしたら、美容師なんて興味がなくなったりして、全く違うことをしてるかもしれないけど、きっと私なら違う何かにも頑張ってるはず。そう信じてる。頑張ってなかったら、今の私を、5年前の私を思い出してね。何かを目指して努力するって、辛いけど結構楽しいものだよ。
追伸 よく人の話を聞いてなくて怒られるから、そこが治ってると嬉しいかも。
」
それを読み終えると、硬く白い紙は灰色の斑を増やしていった。頑張っていたんだよ、彼女は。本当によくやってたんだ。終わりがあるのなら、初めからそれを教えてやってくれよ。どうしてこんなにも唐突なんだ。
溢れる涙は悲しみを知らせる楽器のように、音を鳴らして紙や床に落ちていった。しんと静まった部屋は、その音だけが不確かに響いていた。
「バイバイ」と彼女は言った。
「バイバイ」と僕は繰り返した。
彼女は背を向けて、バスの扉に乗り込んでいった。僕はその姿を朧気に眺めていた。まるで、違う世界へ行って、もう一生帰ってこないような、そんな気がした。そしてそれは、実際にそうだった。
バスが行ってしまうのを見送ると、あてもなく道を低回した。倦まず弛まず骨材を結合させるアスファルトの表面を削るように歩いた。
これで終わりなんだ。僕と彼女との蜿蜿と続いた日々も、あの一言でスパンと切れてしまったのだ。ああ、一体どこを間違えたのだろう。どこから、間違ってしまっていたのだろう。
ひとしきり悩んでも、浮かぶものはなかった。心当たりがあると思えば、あらゆることが予兆だったようにも思えるし、ないと思えば、僕たちはそれなりに上手くやってきてた気がした。そんな漠然とした理解しかしていないから、別れてしまったという考え方もできるかもしれない。
右手をズボンのポケットに入れて、中身をまさぐった。飴かなにかが欲しかったが、入っているのはパスモの入ったカードケースだけだった。視線を上げてみると、そこには空全体の重しとしての役割を果たそうとする雲に満ちていた。もう15.00だと言うのに、僕は初めて今日の天気を知覚した。
悵然たる思いを抱えつつ、頭の中はあらゆる思考で埋め尽くされていた。どこか近くの店に入って、思考を外に向けようと考えた。
道を歩いて、初めに目に付いた料理屋に入った。店内は落ち着いた雰囲気があり、奥には和室のようなものが見えた。店員は和食店でよく見るような法被式の白衣を来ていた。小さな個室に案内され、そこで初めてここが懐石料理を出す店だと気づいた。
この失意の中に食べるには、あまりにも高尚だったが、来てしまったからには仕方ない。こうなれば、一口ごとに口内の全細胞を総動員して食べてやろうと思った。
初めに一汁三菜を食し、次に強肴、箸洗、香の物と少量の食事をいつもの数倍多く咀嚼して食した。量自体はそこまで多くはなかったが、その1食ずつの間の時間で腹はある程度溜まっていった。
満足して店を出ると、空から雲の重しを突き破るような陽光が差し込んだ。光の筋は地上のあちこちに降り立ち、それは幻想的な景色だった。快晴の伸び伸びとした光よりもずっと魅力的だった。