麦わら帽子
「麦わら帽子」と聞くと、つばが広くて頭頂部が丸くなったような、昔ながらのデザインをイメージする。
私が被ったことのあるものは「カンカン帽」。
頭頂部が平で、可愛いけれどどこか子供っぽい印象だった。
中学生の頃に被って以来だからかな。
その当時は、夏っぽい鮮やかなオレンジのお花のワンピースと合わせるようにして買ってもらった。
大人っぽく見えて、大学生にでもなったような気分で
近所のショッピングモールを嬉々として練り歩いてた。
その行動自体は中学生らしかったかも。
*
大人になった今、麦わら帽子を被ってみたい。
子どもの頃のように近所のショッピングモールに被っては行けないし、
旅行や浜辺や、特別な場所でなければ被れないような気がするけれど、
そんな特別な日に被ってみたい。
そんな麦わら帽子を被れるような日を作れたらいい。
うまくいかなくたっていい、そう言われても
SNSを見ると「うまくいってる人」ばかりが目につくの。
そしたらどうしたって、うまくいかない自分を、人生を、肯定できないの。
SNSで見るうまくいっている人は
そう見えるように脚色するか、ほんの一瞬の煌めきを切り取ったか、
うまく立ち行かない日々の先に生きているのか。
いずれにせよ人生が思うようにいかない人が大半で、常で。
だからそんなまやかしに惑わされないで、
うまくいかない人生を生きよう。
最初から決まってた
そんなこと、この世にあるのだろうか。
私とあなたが出会ったのは、最初から決まってたこと?
きっと運命なんだよ。
本当はそんなロマンチックなことが言えたらいい。
だけど現実は偶然で、あのときあの行動をしなければ、出会えなかった。
最初から決まってたことなんてきっとなくて、
偶然の連続で奇跡的に出会えたまで。
…運命では無いけれど、これはこれでロマンチック?
そんなことを思う夜。
「夏の太陽のもとが似合うような日焼けしたアクティブな子がいいなぁ。」
そう話す君は内気でインドアな私と付き合っている。
「じゃあなんで付き合ってるの?」
と聞くと
「好きに理由なんてないじゃん。」と話す。
1度だけ君が話す理想の女の子になろうと試みたけど
太陽で焼けたくはないし、アクティブになる前に疲れてしまった。
そうして葛藤するうちに夏が終わり、君からも別れを告げられた。
*
冬になり、新しい出会いがあった。
「君の笑顔は冬の曇り空からさす柔らかい太陽の光みたいだ。」
そう言ってふわりと包み込んでくれる人。
*
太陽、と聞くとどうして夏の強い日差しばかりを思い出してしまうのだろう。
四季があるはずなのに。
冬の優しい日差しが好きだと言う人もいるのに。
夏の太陽に今もこだわってしまうのは、何でだろう。
鐘の音を聞くと思い出すのは
足を教室まで向かわせることが出来なかったあの日のこと。
朝、チャイムが鳴る直前。
行かなければならないと自分を鼓舞する思いと、教室に入ってからの苦労を想像して無気力になる思い。
気持ちが勝てなくて、保健室へと自然と足が向かう。
「学校までは来れたけど教室まで行けそうになくて。」
甘えた理由も非難せずひとまず受けいけてくれる優しい保健室の先生。
そして「まだ戻れるぞ」と心で囁く悪魔。いや、天使?
葛藤を繰り返すうちに始業の鐘が鳴って
罪悪感と安堵が同時に心を襲う。
でも、「もう葛藤しなくていいんだ。今日は仕方ないんだ。」と言い聞かせることが出来た。
そんな緊張と不安と不気味な安堵が入り混じる、ぐちゃぐちゃなあの日が今も頭の奥に残っている。