時計の針の音だけが聞こえる自室。
仕事から帰ってきて、ようやく一人の静かな時間を過ごせる。
時刻は二十二時過ぎ。
我ながら、朝からよく働いた。
「すぅーーー……はぁ……」
大きく、深呼吸をする。
疲れた身体と、疲れた心へ、空気を送り込む。
「今日も一日お疲れさま」と、心に感謝の言葉を送る。
自画自賛だけど、こうして自分で自分を褒めてやらないとやってられない。
「すぅーーー……はぁ……」
もう一度大きく深呼吸し、心へ空気を送って、膨らませた。
今にも切れそうな一本の糸。
先のことなんて誰にも分からない。
勝手に進む時の中で、皆生きている。
今まで、何度も糸が切れそうになったが、結んだり、くっ付けたりして、時の中を生きてきた。
だが、時の中を生きるのは難しいもので、上手くいかないことが多い。
そして今、また糸が切れそうになっている。
ふぅ……このまま糸が切れて楽になりたいが、まだ時の中を生きたいから、諦められないな。
糸を何重にも結び、切れないようにしてやった。
通勤途中の道のあちこちに落ちている落ち葉。
ようやく木の葉の色が変わったと思ったのに、もう地面に落ちている。
……早すぎじゃない?
まるで秋をさっさと終わらせようとしているみたいだ。
ぴゅ〜っと、冷たい風が吹く。
秋の終わりを感じながら自転車のペダルを漕いで、会社へ向かった。
君の心に掛かった南京錠。
いつの間にか俺達は距離が出来て、君は心に鍵を掛けた。
強引に鍵を開けようとしても、君は俺から離れていく。
「君はどこに鍵を隠したんだ?」
質問したら君は立ち止まってくれたが、俺の顔を見るだけで答えてくれない。
君の心の鍵を見つけて開けないと、このままでは終わってしまう。
そんなの……嫌だ。
だから俺は、何度も君に声を掛け続けた。
「頼む……鍵を俺にくれ……」
プライドを捨て頭を下げ、頼み込む。
君はそんな俺を見て、仕方ないわねって呆れた顔をしながら「私は持ってない。鍵はあなたが持ってる」と言われた。
俺が持ってる……?
ズボンのポケットに入っていない。
胸ポケットに……あった。
ハートの形をした鍵が。
俺は君の心に掛かった南京錠に鍵を入れて、開けた。
「あなたがそこまで私のこと想ってるなんて思わなかった……ごめんね」
「俺こそ……ごめんな」
鍵を開けた先にあった君の心の中は、すごく温かかった。
住宅街に鳴り響く救急車のサイレンの音。
十字路の真ん中に、血の水溜まりが出来ていた。
水溜まりには、動かなくなった彼女が横たわっている。
「あなたのことなんてもう知らない!」
最後に聞いた彼女の言葉が脳内で再生される。
確か、些細なことで喧嘩になったと思う。
俺が余計なことを言ったせいで、彼女は怒って……。
繋いでいた手を振り払い、走っていって、車に轢かれ……。
手放した時間は、数秒。
たった数秒で彼女は……。
俺が余計なことを言わなければ。
手をしっかり掴んでいれば。
彼女は事故に遭わずに済んだだろう。
救急車が到着し、彼女は担架に乗せられ、運ばれていく。
「すいません。事故に遭った女性の関係者ですか?」
救急隊が俺に話しかけていた。
「俺は……」
「あなたのことなんてもう知らない!」
再び、彼女の言葉が脳内で再生される。
「俺は……関係者じゃないです」
「そうですか。分かりました」
救急隊は救急車に乗り、彼女を乗せた救急車は走っていってしまった。
なぜ関係者じゃないと答えてしまったのだろう。
自分でも、分からない。
俺は遠ざかっていく救急車を、ぼーっと見ていることしか出来なかった。