【あたたかいね】
私は極端が嫌いだ。
寒いのは嫌い。すずしいのは好き。
暑いのは嫌い。あたたかいのは好き。
特にあたたかいのは好みだ。
大概人間はあたたかいものに触れれば幸せになる。
あたたかい飲み物。
あたたかい服。
あたたかい人。
あたたかい心。
あたたかい世界。
こんなに寒い冬でも外出イベントは多い。
イルミネーション、クリスマス、年末年始。
そんなときに頼りになるのはあたたかい物である。
地獄のような寒さを味わった後のあたたかさは、命のありがたみを感じさせる。
自分で望んで訪れた地であるのに、私は無意識のマゾヒストかもしれない。
「はぁ~あたたかいね。」
と言いながらあたたかい飲み物を少しずつ頂く。
この瞬間が私のあたたかいという概念の最高値である。
凍りついた異常値となった私の体が、じわじわとあたたまっていく様。
家族や友だちと心もあたたまっていくこの瞬間。
極端かもしれないが、この瞬間を越えるあたたかさを手に入れることはできない。
私は極端が嫌いだった。この表現は撤回する。
【未来への鍵】
玄関の扉の鍵が開いている。
実家に帰省する度に気になるのだ。
「なんでいつも鍵あけてんの?無用心でしょ。」
「うちには盗られるものなんてないからね。」
そう豪語する親だが、さすがに夜は鍵を閉める。
そんな親は休日でもご近所さんと仲良くしている。
ご近所さんも日中は玄関が開いているらしい。
いつも楽しそうにしている。
思えば私は何にでも鍵をかけたがった。
自分の部屋。
大切な物が入った宝箱。
踏み入れられたくない私の心の扉。
親であれ、友だちであれ、私には私しか入れない心の部屋がある。
実家の玄関のように開け放すことはできない。
オートロックだからである。
鍵は私しか持っていない。
ほんとうは誰かに開けてほしいのだ。
土足じゃなく、靴下で部屋に上がってくれればそれでいい。スリッパ持ってきてくれれば最高。
そんな私に心からの親友などできるのだろうか。
笑いあう人たちをみると、いつも心の扉が開いている人のように見えて羨ましい。
だから親はご近所さんとも仲が良いのか、と腑に落ちる。
玄関の扉が開いているのは誰をも受け入れるからなのかと。
心の許容度が生活に染み出ているのだ。
私の心の扉に合う鍵を持っているのは誰ですか?
私の心の扉を開けてくれる人を探しています。
私の人生が豊かになる未来への鍵を。
【星のかけら】
天体に深い入れ込みをしたことはない。
夜空を見上げればいつでもある星たちは、私にとって特別ではない。
星は確かに綺麗だが現実味はない。
とてつもなく遠い世界にいる。
太陽のように温めてくれるでもなく、雨のように濡らすこともない。
ただ光っているだけなのだ。
地道に動き続ける彼らは、私がふと見上げただけでは違いに気づかない。
いや、大きく位置が変わっても私は気づかないかもしれない。
彼らは何のために光っているのだろう。
彼らは何のために動いているのだろう。
多くの人が星に魅了される。
手の届かない星たちに少しでも近づこうとしているのだ。
手を伸ばせば届くような気がすると。
いつかあなたと見た空は不思議なもので、星が手に届くほど近くに感じた。
落ちてきた。
星のかけらは白く小さく溶けていく。
そうか。
震える寒さから落ちてきたのは雪か。
私は笑う。
「星のかけらって雪なんだね。」
少し星が近くに感じた。
【束の間の休息】
私は休息が好きである。
一にも二にも休息。それ休息である。
それも大学の頃までであった。
貧乏性が祟ってか、私は隙間時間に何かを得ようとすることが多い。
例えば車移動はポッドキャストを聞き、どこぞ誰ぞの頭の中にある知識を耳から吸い込む。
聞いたものの8割以上は吹き飛んでいるのだが、インプットしている感が大切なのだ。
こんな思考は社会人になってからだ。
効率化を求める資本主義の構造に呑み込まれてしまった私は、呆れるほど純粋にタイパを求めるようになってしまったのだ。
脳には本来休息の時間が必要だ。
海外のお偉いさんがマインドフルネスにはまっているらしいが、古来から東洋思想には瞑想というものがある。
身体を休めるのに、脳は休めないのか?といったことだ。
常に情報を集めまくる貧乏性を抑えるためにも、私は束の間の休息を改めて実施しようと思う。
窓を開けて外の静寂を背景に、束の間の休息を行うのだ。
こんなせわしない現代から一時の脱出をはかろう。
それ皆も一緒に休息するべし。
束の間の休息であれ、人生には無駄とも言える時間も必要なのだ。
それこそ人生であるべきなのだ。
【過ぎた日を想う】
私が誕生して27年が経つ。
名を刻めるほど優れた人間ではない故、さして頑張らねばという気概さえ持ち合わせなくても良い。
期待されるほどの人間でない寂しさと、自惚れるほど優越さを持たない謙虚さは、時が経ったとしても変わることはないだろう。
27年でこれから私は変わっていけるのだろうか。
昨年と比べると、だらしのないこの私は価値観や考え方を更新している。
過ぎた日に後悔や悲しみは数多くあれど、未来に対しての後悔や悲しみは当たり前だが存在していない。
これからの比率を達成と喜びで満たしていければ良いが、人生はそう甘くない。
しがらみのなかで私たちは生きているのだ。
明日にでも死のうと想ってしまうこともあるかもしれないが、実行できるほど私は絶望しやしないだろう。
ここまで生きてこれたのだ。
これからも生きていけるのだ。
過ぎた日を想う、故に我あり。