【未来への鍵】
玄関の扉の鍵が開いている。
実家に帰省する度に気になるのだ。
「なんでいつも鍵あけてんの?無用心でしょ。」
「うちには盗られるものなんてないからね。」
そう豪語する親だが、さすがに夜は鍵を閉める。
そんな親は休日でもご近所さんと仲良くしている。
ご近所さんも日中は玄関が開いているらしい。
いつも楽しそうにしている。
思えば私は何にでも鍵をかけたがった。
自分の部屋。
大切な物が入った宝箱。
踏み入れられたくない私の心の扉。
親であれ、友だちであれ、私には私しか入れない心の部屋がある。
実家の玄関のように開け放すことはできない。
オートロックだからである。
鍵は私しか持っていない。
ほんとうは誰かに開けてほしいのだ。
土足じゃなく、靴下で部屋に上がってくれればそれでいい。スリッパ持ってきてくれれば最高。
そんな私に心からの親友などできるのだろうか。
笑いあう人たちをみると、いつも心の扉が開いている人のように見えて羨ましい。
だから親はご近所さんとも仲が良いのか、と腑に落ちる。
玄関の扉が開いているのは誰をも受け入れるからなのかと。
心の許容度が生活に染み出ているのだ。
私の心の扉に合う鍵を持っているのは誰ですか?
私の心の扉を開けてくれる人を探しています。
私の人生が豊かになる未来への鍵を。
【星のかけら】
天体に深い入れ込みをしたことはない。
夜空を見上げればいつでもある星たちは、私にとって特別ではない。
星は確かに綺麗だが現実味はない。
とてつもなく遠い世界にいる。
太陽のように温めてくれるでもなく、雨のように濡らすこともない。
ただ光っているだけなのだ。
地道に動き続ける彼らは、私がふと見上げただけでは違いに気づかない。
いや、大きく位置が変わっても私は気づかないかもしれない。
彼らは何のために光っているのだろう。
彼らは何のために動いているのだろう。
多くの人が星に魅了される。
手の届かない星たちに少しでも近づこうとしているのだ。
手を伸ばせば届くような気がすると。
いつかあなたと見た空は不思議なもので、星が手に届くほど近くに感じた。
落ちてきた。
星のかけらは白く小さく溶けていく。
そうか。
震える寒さから落ちてきたのは雪か。
私は笑う。
「星のかけらって雪なんだね。」
少し星が近くに感じた。
【束の間の休息】
私は休息が好きである。
一にも二にも休息。それ休息である。
それも大学の頃までであった。
貧乏性が祟ってか、私は隙間時間に何かを得ようとすることが多い。
例えば車移動はポッドキャストを聞き、どこぞ誰ぞの頭の中にある知識を耳から吸い込む。
聞いたものの8割以上は吹き飛んでいるのだが、インプットしている感が大切なのだ。
こんな思考は社会人になってからだ。
効率化を求める資本主義の構造に呑み込まれてしまった私は、呆れるほど純粋にタイパを求めるようになってしまったのだ。
脳には本来休息の時間が必要だ。
海外のお偉いさんがマインドフルネスにはまっているらしいが、古来から東洋思想には瞑想というものがある。
身体を休めるのに、脳は休めないのか?といったことだ。
常に情報を集めまくる貧乏性を抑えるためにも、私は束の間の休息を改めて実施しようと思う。
窓を開けて外の静寂を背景に、束の間の休息を行うのだ。
こんなせわしない現代から一時の脱出をはかろう。
それ皆も一緒に休息するべし。
束の間の休息であれ、人生には無駄とも言える時間も必要なのだ。
それこそ人生であるべきなのだ。
【過ぎた日を想う】
私が誕生して27年が経つ。
名を刻めるほど優れた人間ではない故、さして頑張らねばという気概さえ持ち合わせなくても良い。
期待されるほどの人間でない寂しさと、自惚れるほど優越さを持たない謙虚さは、時が経ったとしても変わることはないだろう。
27年でこれから私は変わっていけるのだろうか。
昨年と比べると、だらしのないこの私は価値観や考え方を更新している。
過ぎた日に後悔や悲しみは数多くあれど、未来に対しての後悔や悲しみは当たり前だが存在していない。
これからの比率を達成と喜びで満たしていければ良いが、人生はそう甘くない。
しがらみのなかで私たちは生きているのだ。
明日にでも死のうと想ってしまうこともあるかもしれないが、実行できるほど私は絶望しやしないだろう。
ここまで生きてこれたのだ。
これからも生きていけるのだ。
過ぎた日を想う、故に我あり。
【何もいらない】
「何もいらないよ。」
そう言う私はこの時17になる頃である。
誕生日プレゼントはなにがいい?と聞かれるが、大して欲しいものはなかったのだ。
いや、実はあったのだが、高い山の景色と同様に私には手が届かない。
では親は届くかというと、これもまた届かないのである。嗚呼無常。人生とはこんなもんである。
手がかからない子ね、などと笑っている母であったが、こう言ったら本当に何も買ってもらえず誕生日を迎えることを私は知っている。
だから高くも安くもない、当たり障りのない物をねだったりしたものだ。
ねだるというより、提示してあげるといった具合である。
こうして私は本当に欲しいものを口に出さぬまま大人になっていく。
あのときは子供としてまともな神経だと自称していたが、大人になるとこの考え方は苦しい。
現に私は苦しんでいる。
本当に欲しいものややりたいことがわからなくなっているのである。
この出来事が起因しているわけではないが、親に依存した考え方や価値観は、いつの間にか自分のことを犠牲にしている。
なにかしていないと評価されない、認められない、自分の望みがわからない。
まさに遭難である。
何もいらないとは、満たされているからこそ言える言葉なのだと思っていた。
しかしそうではなく、満たされているように思い込んでいるわけでしかない。
私は何もいらないとは言わない。
私が私を認めるように、何かを手に入れたい。
私が次に欲しいのは私という存在と、自己受容なのだ。
誰でもなく、私が手に入れようとするしかないのだ。