月風穂

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1/29/2024, 12:12:43 PM

【I LOVE...】

私はのんびりが好きだ。
いや、愛していると言っても過言ではない。
のんびりしているといえば牛。
闘牛ではなく乳牛あたりが妥当であろう。

私は丑年であり、山羊座なのだ。
計らずとも牧場との関連の深さがうかがえる。
とはいえ牧場で働くほど意欲もない私は、たまに行く名の知れない牧場へ行くのが好きだ。
公園の延長みたいな広場も好きだ。やけにリスとかがいるようなところである。

牛の何がいいか。
まずのんびりしているのである。
のんびりを愛している私からすれば、世間の荒波から逸脱した雄大さを感じさせる生物は希少だ。
命を削るほどの外敵もおらず籠の中の鳥も同然。いや、柵の中の牛であったか。
しっぽをぷらぷらしているところなども実に愛らしい。
彼らは人に好かれようとそのようなことをしているわけではない。
ここも素晴らしく、人に媚びない姿勢は自らの気高さを誇っているようである。
ぴょこんとした耳なども実にキュートである。
時に角を生やしたいかつい牛もいるが、本質は似ているようでのんびりとしている。

その点山羊などは飛び回り、ちょっと怖い。
馬は突如情緒不安定になり、やはり恐ろしい。
羊は目が怖い。
やっぱり牛がちょうど良くじーっといつまでも見ていられるのだ。


焼肉を食べている私からすれば、牛たちと会うのは少々気まずい。
牛乳やヨーグルトはまだしも肉である。ただ事ではない。
彼らと会うときは「ベジタリアンだぞ」と言いたげな雰囲気を醸し出し難を逃れる。
おそらく酪農家ですら焼肉を食しているであろう。
彼らはどんな気持ちで牛たちと関わっているのであろうか。

そう言いながらも、牛たちのおかげで私はここまで大きく育ったのだ。
ありがとう牛たちよ。
これからもよろしく。
のんびりしているあなたたちが好きだ。

1/28/2024, 12:29:51 PM

【街へ】

街にはランクがある。
小街、中街、大街、特大街である。

私は幼い頃から小街に住んでいた。
中街へは電車に揺られて20分ほどで到着する。
小学生の時に初めて目にした中街は、こんな世界があるのかと驚いたものだ。
岩倉使節団が目にした世界と同等である。
明治維新の改革は、大したこともないこの街にまで影響していたのだ。
この感動は後世まで語り継がれるであろう。

街へ出るとき恐れるのは目的地までたどり着けるかということである。
大街、特大街はやたらに複雑怪奇なのだ。
何度私の心を挫けさせたであろう。
だが私は諦めない。スマホという名のドラえもんがいるのだ。
スマホで検索し、目的地までちょちょいのちょいってな具合である。特大街も大したことはない。

街へ出るなら外見にも気を使う。
誰のためと言われれば解を窮するが、こんな洒落た場所にいるのなら洒落た姿でいたい。
私の遺伝子に刻まれた見栄という、ここでしか発揮できない柔軟性のない能力である。
颯爽と風に乗りスマートな佇まいを披露すれば、今日の私は満足する。
あとはしょうもない用事を済ませて完了である。


こんな街でも数多の人の思い出がある。
私のような田舎者からクールな都会人まで。
私が行く街はどこもきっと素敵な街なのだ。
次に行く街はどこにしようか。
にこやかに笑っている街に行きたいのだ。

1/27/2024, 1:19:14 PM

【優しさ】 

他人を優しいと評す人間は間抜けである。
私は幾度となく「優しい」と言われたことがあるが、「優しさ」の定義は何だろうか。
間抜けはその意味も知らず発言している。

私は優しいと直接相手に言う人は信用できない。
荘子曰く「面と向かって人を褒めたがる奴は、影に回ると悪口を言いたがる」だそうだ。
同感だ。いつの世もこのような人間がいる。
私も荘子側の人間であると思うと、位が10ほど上がった心地である。

大概「優しい」と言う人は相手のことを真剣にみていない。
どこが優しいかと詰問すれば口ごもるだろう。
特段相手に良いところがないから「優しい」という耳触りの良い言葉に逃げるのだ。愚かである。
何をもって優しさとするのか、具体性を伝えれば良いのだ。
誉めるところがないからといって「君には良いところがないね。バイバ-イ。」と言えば良いものでもない。
そんなことを言えばバイバイされるのはあんたの方だ。正直すぎるのも困ったものである。


私にとって優しさとは、私の心が喜ぶもの。
私が好きだと思えるものが優しさ。
私は私が優しさだと思えることをする。
私が優しければ、誰かも優しくなるかもしれない。
すべては私から始まると思えば、優しさの重要さは計り知れない。

誰かから受け取る優しさも私は好きだ。
心が一瞬にして晴れる感覚はこの時に訪れる。
私の優しさなど大したことはないが、意図しない人の優しさはなぜか心が喜ぶ。
荘子曰く「自ら其の適を適とす。」である。


1/26/2024, 12:53:57 PM

【ミッドナイト】

嫌なことがあった日はミッドナイトを満喫する。
普段の私のミッドナイトは大概夢の中だ。
自慢ではないが私の夜は短い。
爺さん婆さんに勝つことはできないが、そこら辺の若者には確実に勝てる。

嫌なことがあったとき。
私は誰とも会いたくないし語りたくもない。
励ましの言葉など要らぬ。
お前に私の気持ちはわからない。
このときの私は殺人事件の犯人そのものである。
ひとりで物思いに耽り、絶望の縁までに自分を追い込む。
そのときだけ私は心を鬼にする。イメージはハートマン軍曹である。
このままの気持ちで明日を迎えたくない。
嫌なことを嫌なままで終わらせたくない。
わざとポジティブにすると、私の気持ちは空回りして意味がないのだ。

ここまで気持ちを沈めると、不思議なことにいつの間にかまぁよいという心地になる。
パアッと気が軽くなるのは、自分次第であるのだなと嫌なことに真摯に向かい合った私を讃える。
眠気に耐えきれず布団に沈み込むと、私は布団の寛容さに感動する。
何時の時も暖かく私を包み込む布団は、何物にも代えがたい親友そのものだ。
私の目標は今日から布団である。
そう思ったのも束の間、目覚める頃には夜更かしをした昨日を悔やむのである。

こうしたルーティーンはいつからだったか思い出せない。
私はこうして下らないミッドナイトを過ごしている。
嫌なことがあったときはさっさと寝るほうが良いのだが、いつ悔やんでもこの習慣を辞めることなどできない。
私の気持ちはこの時間によって救われているのかもしれない。
そう思うと辞めることはできない。
タバコ常習者と同じである。
と思うと途端につまらぬことをしているなという気にもなる。

1/25/2024, 12:49:40 PM

【安心と不安】

私はいつも春が苦手であった。
「春はあけぼの」など流暢なことを言っている場合ではない。
中学生であったとき、毎年クラス替えがあった。
ああいった類いは、大概目立つ奴らがドラフト制で指名され、残った私のような雑魚は人数の少ないクラスに補充される。
数合わせで呼ばれるため、私たちにかけられた期待はないに等しい。捨て試合の合コンである。
さらに悲しいことに、仲良しな奴とは端と端のクラスに遠ざけられる。
目立つ奴らは仲良しでクラスに固まっているがどういったことだろうか。
ここまで痛めつけて何がしたい。大人はたちが悪い。
ヘドロのような担任とも出会い、見事な三重苦である。
また1からのスタートは本当につらい。
私は毎年この賭けに負けていた。
中学時代にいい思い出はほとんどない。
私が中学校で見つけた安心はないのだ。


私にとっての安心とは何だろうか。
私にとっての家族はそうなんだろうか?
いつでも帰ることができる場所だが、私のことを本当に大切に思ってくれているか不安になる。
ここである。不安はいつでも心を食らう。
信頼していたあの人も、すぐに掌を返すかもしれない。
私は中学時代にそうしていくつも涙を流してきた。
まるで今日のことのように胸を締め付ける。

やはり私が安心できるのはひとりのときだ。
誰もいないこの時間は、何を考えても何をしても私のすべてを受け止めてやろう。
私は私を信頼している。
いつも動くこの身が安心であれば、不安など敵ではない。
中学時代賭けに負け続けた私はこうして安心を見つけた。
いい思い出がなくとも、人は何らかの学びを得ることができる。
有名人であれば涙ぐましいエピソードだが、私は一般人である。何てことはない。


今は安心を金で買える世界である。
人の不安を煽るのも社会の役割だ。
私はそんなものにはなびかない。
私がいればそれだけで安心なのだ。
あなたもあなた自身が存在しているなら、それだけで安心となる。
そうすると段々世界も安心に包まれていく。
不安に呑み込まれてはいけない。
その先は闇しかないのだから。

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