【逆光】
私から見れば光は逆ではない。
対象物を主体として見たときに、逆光という言葉が浮かび上がる。
対象物からすれば私は直光である。
不思議な言葉だなぁと常々思うのだ。
主に写真を撮影するときに使われる言葉だ。
それ以外で使ったことはあっただろうか?
記憶にはない。私は忘れっぽいのだ。
写真というものがなければ、このような言葉もなかったのではないだろうか。
「そち、逆光だからちこうよれ。」
などと使われるはずはない。
逆光は片面が明るく照らされ、反対側は暗い様子である。
これは人間にも言えることだ。
誰しも明るい面、つまり良い面と
暗い面、つまり悪い面があるのだ。
私には悪いところしかないと嘆くのは間違いで、光の当て方を変えれば誰しも良いところがある。
どんな人間にもこの両面は存在している。
そりゃあ私もなれるものならピカピカの聖人君主でありたい。
なんの欠点もなく、誰もが憧れる人間に。
でもそれは太陽と同等で、数えきれない総数の中のたったひとつなのだ。
何よりそんな人間はたぶんつまらない。
ヘドロのような真っ黒な奴もいるが、そんな奴はゴミ同然なので無視するのが一番である。
何が言いたいかというと、大概のものは皆自分を蔑む必要はないということだ。
ヘドロ以外はな。
太陽が真上にくれば逆光はなくなるんだがね…。
上手いこと言おうと思うとすぐこれである。
【こんな夢を見た】
他人の夢の話ほどつまらないものはない。
だから私の夢もきっとつまらない。
違う夢の話をしよう。
私が子どもの頃の夢は漫画家であった。
周りの子たちはプロ野球選手、ケーキ屋さん、先生、花屋さんなど、いかにも子どもの夢という感じであった。
成長した彼らを知っている私にしてみれば、鼻で笑うレベルである。
私は漫画家だ。
周りに漫画家になりたい子はいなかった。
この学校にひとりしかいない夢を見ている私を、なんだか誇らしく思った。
『ドラえもん』を読み藤子・F・不二雄に憧れた。
まともな奴はのび太に憧れるものだ。
ドラえもんがいるだけで奴はなにもしていない。
すべての小学生の羨望のまなざしである。
私は違った。
こんなアイデアを持ち、話も面白い。
色んな作品を描いている。こんな人になりたい。
その夢は打ち砕かれる。
ウキウキで藤子・F・不二雄の伝記を読んだ私は驚愕した。
漫画家は超絶ブラックであった。
迫り来る締め切り。睨み顔の編集者。浮かばないアイデア。売れない作品。眠れないジレンマ。
天才でもここまで追い込まれるのだ。
なにもしていないのび太は、こんなに苦しんだ人から生まれたのだ。
のび太はぐーたらと何を呑気にしている。作者がいなければ貴様も危ういのだぞ。
そりゃドラえもんにすがりたくもなる。
私は漫画家の夢を諦めた。
小学5年生のときである。
卒業式のスピーチでは、仕方がないので漫画家になりたいと言い張っていたが、なりたくねぇよと心の底では思っていた。
大人は子どもに夢を見せたがる。
実際の大変さ、汚さは伝えることはない。
それが悪いとは言わない。
つらくても大変でも、なりたいと胸を張って言えるのならば、それは大きな夢だ。
私は早々と夢を諦めたが、諦めなければもっと苦しい現実があったのだと思う。
今の私は私でつまらない毎日を送るが、『ささやかな幸せ』という夢を見ていた将来の姿でもある。
誰もが偉くなる必要もないだろう。まあよい。
【タイムマシーン】
すでにタイムマシーンはある。
私たちの周りには未来人がいるし過去人もいる。
皆気づいていないだけなのだ。
考えてもみてほしい。
今日すれ違った人のことをみんな知っているだろうか?
ほれみたことか。知らない人ばかりである。
彼らが私たちと同じ時間を生きているとは証明できないのだ。
彼らは私の知らないところで、やり直したい過去と見てみたい未来へと到達している。
だが今の自分の時間を疎かにしているぞ。
彼らは気づいていないのだろうか。
他の人の人生の影響も考えないで身勝手な者ばかりである。
彼らの隣には例の青ダヌキがいるのだろうか?
いつも隣にいる友だちも、寄り添ってくれる恋人も、手を繋いでくれる家族も。
たとえ彼らが時空を越えた異邦人であったとしても、私はすべてを愛す。
こんな私と時空を越えて関わってくれるのだ。
そんな彼らは到底まともではないが、私と会うことを選んでいるのだ。
まともでないから私を選んだのか。
それならば納得である。
私はタイムマシーンに乗れない弱者である。
過去などとうに過ぎたし、未来など見たくもない。
対した手応えのない毎日だが、捨てたものでもない。
今日は定時上がりでこの文章を書いている。
読んでくれる人がいる。
この時間を愛せず、何を愛せるだろう。
…やり残した仕事を思い出した。
タイムマシーンに乗れないことを悔やむ。
明日の私よすまない。
【特別な夜】
人は生きているとしょうもない出来事に遭遇する。
大学の時分の知らない奴らとの飲み会である。
仲の良い友だちとは違うのだ。
「○○も行こうぜ!」と誘われ、「この後バイトがあるから(嘘)」などと言える度胸はない。首根っこを捕まれながら大人数で店へと向かう。
数時間の時間と金をムダにし、気配を消して家路へと急ぐ。
どうやら二次会が行われるようだ。
「あれぇ?こんだけしかいなかったっけ?」などと大声が聞こえてくるが知ったことか。
気配を消した私のような奴が何名かいたようである。健闘を祈る。
ここから1時間半かけて帰らねばならぬ。田舎者はつらい。
終電は23:00すぎと都会よりも早い。
田舎は爺さん婆さんが多いのだ。この時間でも随分良心的だ。
この時間に乗ってくる爺さん婆さんがいたら心配である。
何回か電車を乗り換え、ようやく終着駅に到着する。
駅を降りるとすぐ私は耳からイヤホンを外す。
親が迎えに来てくれるからではない。私の親はもう既に夢の中だ。薄情である。
静まり返った駅。
日中でもシャッターが多く降りた駅前は、不思議なことに日中よりも寂しさを感じない。
電灯の明かりはまばらだが、私の足元を確かに照らしてくれている。
誰も付いてこない、ひとりだけの道を私は歩く。
家まで10分ほどの田舎道。
途中電灯がなくなり、月の明かりで照らされる。
周りの田んぼは冬の様相を呈している。
冬になると生き物たちの声はほとんど聞こえない。
通りすぎる家々の明かりは頼りなく、この時間に歩いているのは私だけという事実が強調される。
顔の横を撫でる冷たい風は、私が着実に歩みを進めている証拠なのだ。
この瞬間が私にとって特別な夜だ。
同じ土地にいた昔の人々もこんな景色をみていたのだろうか。
私が幾度もなく歩いているこの道は何百年、いや何千年もの時間、多くの人が足跡を残している。
そんな足跡を私も残すことができる。
私は名前も顔も知らない人たちのことを考えている。
柄にもなく、こんなことを考えることができる私をなんだか素敵だと感じてしまう。
まぁこんな夜くらいいいだろう。
皆にとっては何でもないが、私にとっては特別な夜なのだから。
【海の底】
伊能忠敬はすごい。
私は1日に最大1万5000歩を歩いたことがあり、友に自慢していた。
伊能忠敬は1日に推定約5万6000歩歩いたという。
私が本気を出したら歩けるだろうか。本気を出すまでもない。私の本気は1万5000歩なのだ。
伊能忠敬に勝とうなど百年早いのである。
海の地図はあるのだろうかと気になった。
海図とでも言うのだろうか。
調べてみるとあった。
なんと、またも伊能忠敬である。
なんということだ。ここまでくると気味が悪い。
だが私は彼をすごいと思っている。ここもすごいと言っておこう。
正確には彼の死後弟子たちが沿岸部を完成させ、その先は海上保安庁となっている。
だとしてもである。
彼が生きていたら、海の底にまで興味を持ったであろうことは想像に固くない。
生涯歩き続けた彼は、きっと海の底までも歩いて行くのではなかろうか。
水圧などにも屈しない。
海の底は真っ暗であるが、彼が測量すれば暗闇も光輝きそうだ。
彼はそういう存在なのだ。
伊能忠敬はすごい。
私が千年かかっても彼に勝つことはできない。