…寒い。
凍てつく空気に容赦なく吹き付ける風。痛む手と震える膝。疲れた身体に追い討ちを掛けられる。こんな日は暖かい我が家に一刻も早く帰るのが最善だ。
すぅっと空気を吸い込み、少し早足で心細い街灯を頼りに歩く。親愛なる彼はもう家に着いているのだろうか。いつもは私の方が遅いけれど、今日は早く上がれたから。もしかしたら先に着くかもしれない。そうなったら私が料理して待っていようかな、だとかそんな思考が白い息と共に浮かんでは消えてを繰り返す。
びゅうっと一際強い風が吹いた瞬間、思考も息も全てが霧散し一気に現実に引き戻された。そして、突然開けた視界の奥に、信号待ちをする彼の姿を捉えた。
私は気づけば走り出していた。寒さも痛みも何にも感じなくなって、ただただ眩い光を、瞬く光を、ただひたすら風と共に追い掛けて。途中で気づいた彼の驚いた顔がこの上なく愉快で。満たされて。そんな勢いのまま抱き着いたら、人生で一番の暖かさを感じて。
「あぁ、私って幸せなんだな」
と呟いて彼を見上げると、ふんわりと頬を緩ませて、私の乱れた髪を直しながら
「僕もね、君のおかげでずっと幸せだよ」
なんて言葉が降ってくる。私は貴方と、貴方のいるこの世界が何よりも大切で愛おしい。照れと寒さとできっと私は赤く染まっているんだろうな。
一人の時よりもゆったりと、二人は光と熱とを帯びたまま、明るくて暖かい道を帰っていった。
『追い風』
視界が反転している。甲高い耳鳴りが頭に響く。
今、落ちているのか?
それにしても景色の流れが遅すぎる。死ぬ間際は時が遅くなると言うけど、自覚してもこのままなのはおかしい。
確かなのは地面が段々と近付いている事と、足首に違和感がある事。右の足首…で支えられている?
「──────起きて」
雑音が初めてまともな声となって聞こえ、目を開いた。反転した景色のままだったから自信はないけど、さっきまで目を閉じていたらしい。今度は景色の流れが逆になる。
「あ、起きた?なら後は自分でも頑張って」
少しずつ意識が明瞭になっていく。けれど、聞いた事のある気がするこの声を思い出せない。とりあえず足を角に引っ掛け身体を起こそうと試みると、思ったよりもすんなりと空まで視界が移動する。
「大丈夫ー?生きてるー?記憶はある?」
という声と同時に少女が顔を出した。
答えようと口を開ける。が、肝心の声が喉から出て来ない。仕方が無いので首を横に振る。
「あぁ、声が出ないのは知ってるよ。記憶も無いみたいだね」
頷くと、じゃあ着いて来て、と言い足についていた縄を解くとスタスタと歩いていってしまう。
少女は彼に背を向けてから笑みを浮かべ、良かったと呟いたが、それが彼の耳に届く事は無かった。
『逆さま』
辺りはどっぷりと闇に包まれていて何も見えない。
視界を与えているのは心許ない一つの蝋燭だけ。
風が少し強く吹けば消えてしまう熱を帯びた緋が、ちらちらと光と影とを生み出しては揺れている。
太陽が沈めば簡単には辺りを明るくなんて出来ない。今が朝なのか夜なのか、時間感覚も自分が生きているのかも何にもわからない。狂ったせいで眠る事も起きる事も奪われるなんてね。
まぁ人生なんてそんなものか。
「包み込んでくれる陽の光とまた出会えないのなら」
炎に触れると、瞬く間に身体を伝って地面を伝って、緋は全てを覆い尽くした。
『眠れないほど』
夢を持たなきゃ希望を抱けない。なのに此処じゃあ現実を見ろと頭ごなしに言われる事もある。
ねぇ、そんなの理不尽だと思わない?
現実を見た結果、病んで廃人になったって一切責任は負ってくれないのに。一方的に主張するだけ。
自分の思い通りに全てなると、自分が正しいと信じて決して疑わないような人達。私からしたら理想を盲信してる様にしか見えないなんて、なんだか滑稽よね。
でも、そんな滑稽な人達に壊された人生も沢山あるんでしょうね。確かに、自分の事を想ってくれた上での言葉ならどんな言葉でもきちんと受け取って然るべきものよ。それが、現実を見ろ、だったとしても。
だけどね、自分のこの先なんて全く考慮してない人達に、ただその場で言われた事なんて気にする必要無いの。
あら、そろそろお目覚めの時間ね。私の夢の主様。
今日も貴方にとって良い日になりますように。
それじゃあ、行ってらっしゃい。
『夢と現実』
『さよならは言わないで』
私、またねって言葉が好き。
次があるって、これきりじゃないって素敵な事だと思うから。
それに、また会おうねだとかまた会えるよねって意味も含まれている気がするから、相手と言い合えば絶対また会える気がするの。
だからさ、一緒に言おう?