日々、私の拙い投稿をみていただきありがとうございます🙇
気づけばあっという間に今年が終わろうとしています。
投稿を始めたのが今年の8月中旬。
時折くじけそうになった時も、書けなくなった時期もありました。
それでも投稿を始めてからというもの、世界を見る目が少しだけ変わり、毎日が新しい刺激に溢れていたように思います。
♡や皆様の紡ぐ投稿に助けられながら、こうして年の境を迎えられることに、感謝でいっぱいです。
いつも本当にありがとうございます✨️
年が変わっても何が変わるということはありませんが、気持ちを新たに物語を届けていければと思います。
これからも応援いただけると嬉しいです。
昨日投稿した『時の狭間の預かり所』が年内最後の物語となりました。
過去の自分を振り返り、すべてを肯定し、未来につながるお話です。
自分に自信が持てなくなった時には、一度手のひらを眺めてみてください。
確実に大きく成長している自分の手には、これまで触れてきたもの、愛してきたもの、愛してくれた人の思い出がたくさん乗っているはずです。
なかには苦労や苦悩、泣きたい夜もあったでしょう。しかし、それも手のひらにはしっかりと乗っています。
あなたを成長させてくれた重みのひとつです。
皆様の迎える年が幸多き一年になりますように。まだまだ寒い日は続きます。お体温かくして、よいお年をお迎えください🎍
それではまた来年お会いしましょう🙇
2025.12.31 結城斗永
#よいお年を
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
タイトル『時の狭間の預かり所』
二〇二五年、最後の夜。小さなデザイン会社に勤める僕は、ようやく最後の仕事を終えて帰路についていた。ここのところ、起きている時間のほとんどを事務所で過ごしている気がする。もうしばらく帰省もできていない。
街一番の繁華街は、帰宅を急ぐ者や、新年を待ち侘びる若者たちの熱気で溢れかえっている。巨大な街頭ビジョンにはカウントダウンの文字が踊り、ネオンと電飾に彩られた街はまるで星粒のように煌めいている。
だが、僕にはその光景が、つい先程入稿を終えたパチンコ屋の派手なチラシのように見えて頭が痛くなる。
入社して四年。期待していたようなクリエイティブはなく、ただ用意されたフォーマットのうえに、クライアントの要望という名のアクリル絵の具を塗りたくるような仕事。尽く上塗りされた絵の具に、自分の地色はとうに見えなくなっていた。
ショーウインドウに、僕がこの業界に憧れたきっかけになったハイブランドの広告を見つける。細部に目を凝らせば凝らすほど、洗練されたこだわりが見えてくる。
「こんなはずじゃなかったのにな……」
僕は自分の手をまじまじと見つめる。何も掴めていない空っぽの手はとても小さく見えた。
喧騒から逃げるように裏路地へ身を潜めると、辺りは急に薄暗く、静かになった。
ふと、雑居ビルの影に淡い光がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。足が自然と吸い寄せられていく。
光の正体は簡素な露店だった。雑多に品物が並ぶ中に質素な格好をした老人がひとりだけ座っている。
「いらっしゃい。忘れ物を取りに来たのかい?」
老人の言葉に僕は首を傾げる。
「……忘れ物?」
顔を上げると軒先の看板には『時の狭間の預かり所』とあった。
「人は気づかないうちに、思い出やら理想みたいなものを落っことしちまうのさ。俺はそんなのを拾っては、こうして持ち主が現れるのを待ってる……」
そう言って老人が取り出したのは、深い紺碧の生地に光の粒が瞬く一枚のストールだった。
「あんたの落とし物はこれかな……」
そのストールに見覚えはなかったが、自然と手を伸ばしたくなるような感覚があった。
「預かり期限は今年いっぱいだ。あんたが持ち主だと分かれば、俺も快くお返しするよ。ただね――」
老人が不敵な笑みを浮かべながらギロリと僕の顔を覗き込む。
「心の底から望まなきゃ、こいつも星の彼方に消えちまうだろうさ」
その時、低い鐘の音が遠くから聞こえてきた。どうやら除夜の鐘が鳴り始めたらしい。
僕はストールに手を伸ばす。その瞬間、生地に触れた指先から、幼い頃の記憶が流れ込んでくる。画用紙いっぱいに走るクレヨンの線。道端でキレイな石を見つけては拾っていた頃の高揚感。
十回、二十回と鐘の音が響くたび、忘れていた思い出や抱いていた夢が蘇り、心臓の奥で小さく音が弾ける。
ストールも呼応するようにキラキラと輝き始める。その姿はまるで夜空の星のようだった。
それぞれの思い出はとても美しいはずなのに、混ざり込んでくる現実がそれらを掻き消していく。
自分の考えなんて捨てろ。フォーマットに従えばいい。納期を守れ。時間とコストはできるだけ削れ。
鐘は容赦なくなり続ける。そのたびに低い震動が夜の空気を伝い、僕の胸を揺らす。
表通りが騒がしくなる。年明け三十秒前のカウントダウンが始まった。
「あんたが手放すってんなら、それでも構わんよ……」
老人がまた口元を大きく歪めて笑みを浮かべる。
カウントダウンの数字が減るほどに、通りの賑わいが勢いを増していく。手のひらにじっとりと汗が滲む。
その時、ふと言葉が舞い込んだ。
――あんたの手、いつの間にこんなに大きくなったのかしら。
何年か前、帰省した時に母に言われた言葉だった。
クレヨン、石ころ、絵筆に色鉛筆、ペンタブの感触。これまで積み重ねてきたものが、次々と手のひらに集まっていく。
――このまま終わりたくない。
「もう一度夢を見たい!」
夜の静寂に声は思いのほか響いた。老人の眉がピクリと動く。
「僕の魂が美しいと信じるものを、もう一度この手で形にしたい!」
叫んだ瞬間、ストールが夜の闇に溶けるように透き通り、僕の肩へと舞い上がった。僕はそれを両手で受け止め深く纏った。
百八回目の鐘が鳴る。街の賑わいは最高潮に達した。
お祭り騒ぎの中で、僕だけはまるで星空に包まれるように穏やかな気分だった。深く息を吸い込むと、夜の澄んだ空気が肺を満たし、心の底から希望が溢れてくる。
遠くで上がる新年の花火が、冬の空を彩る。
もう、迷いはなかった。
僕はカバンからスケッチブックを取り出し、冷たいコンクリートの上に座り込んだ。
まだ誰も見ていない新年の光を捕まえるように鉛筆を走らせる。僕にしか描けない世界をこの真っ白なページに残していくように。
#星に包まれて
タイトル『広すぎる余白』
静かな終わりとは、必ずしも静かな始まりを意味しない。かといって、騒がしいわけでもない。
書類ひとつなくきれいに片付いたデスクを前に、私はこの会社で勤めた三十余年を振り返っていた。
さほど大きな仕事を成し遂げてきたわけではないが、こうして定年まで勤めることができたことは誇らしく思えた。
「みんな、ちょっと手を休めて」
年下の上司である佐々木が二度軽く手を叩き、同僚の注意を惹くように高く通る声を響かせた。
キーボードを叩く音が疎らに途切れ、数十脚の事務椅子が軋む。
佐々木が私に向かって手招きをする。まるで進捗報告を怠って呼ばれる時と同じ表情だった。
私は心の中で言葉を整理しながら、課長のデスクの前まで歩みを進める。私が同僚の方を向き直ると、佐々木が私の肩を叩きながら言葉を発する。
「えぇ、本日をもって、渡辺さんが定年退職を迎えます」
入れ替わりの激しい営業の現場には、私が入社したころの話など知るものは誰もいない。ほとんど定型のような挨拶を短く済ませ、感謝の言葉は最小限に、思い出話は一切混ぜなかった。
「お疲れ様でした」
佐々木から手渡された花束は、春の香りがした。一斉に沸き起こる拍手に送り出されるように、部署を後にする。
エレベーターホールへ向かう背中に、誰かが電話を取る声が聞こえ、キーボードを叩く乾いた音が再開される。
振り返る理由もなかった。
会社を出ると、冬の冷たい風が頬をなでた。
まだ夕方には少し早い、午後四時過ぎ。
帰宅ラッシュにはまだ間があり、地下鉄のホームに滑り込んできた電車には空席が目立っていた。
いつもならドアの脇に立ち、吊革を握ってスマホの画面を眺める時間だ。だが私は、吸い込まれるようにシートの中ほどに腰を下ろした。座面から伝わる微かな振動に、膝の上に乗せた花束の包装紙がカサカサと音を立てる。
ふと顔を上げると、目の前の吊り広告が目に入った。
『第二の人生、自分らしく』
『定年後の資産運用相談会』
文字が大きく、やけにくっきりとして見えた。
――第二の人生……か……。
家の最寄り駅を降りると、居酒屋の看板はまだ消えたまま。近くのカフェはパソコンを開く学生や若者でごった返し、どうにも入りづらい雰囲気だった。
酒を飲むにしても、茶を飲むにしても、そこで何をして時間を潰せばいいのか分からなかった。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、甘い醤油の煮える香りが漂ってきた。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
キッチンから顔を出した妻の和子は、いつも通りのエプロン姿だった。食卓にはいつもより豪華な出前の寿司と一緒に、私の好物である肉じゃがが並んでいた。
「お父さん、お疲れ様」
大学を卒業して以来、自宅で公務員試験の浪人生活を送っている娘の美咲が、厚手の参考書を膝に乗せ、リビングのソファから小さく顔を上げた。
「……ああ。美咲、就活は順調か?」
私が不器用に問いかけると、美咲のページをめくる手が一瞬だけ止まった。冷蔵庫の音がリビングに低く響く。
「大丈夫。ちゃんとやってるから」
美咲は小さく笑いながらそれだけ言って、視線を参考書に戻した。和子が「ほら、冷めないうちに食べましょう」と割って入る。
食卓での話題は、明日からの天気の崩れや、さっきテレビでやっていた健康番組の内容へと流れていった。
箸が進み、寿司桶の底が広くなっていく。咀嚼する音と、テレビから聞こえる声だけが、広いとは言えない部屋を満たしていた。
食事が終わる頃、美咲がふと顔を上げた。
「明日からゆっくりしてね」
和子も、労うように頷いている。
私は、自分の中に澱のように溜まった『何か』を言葉にしようとして、結局、喉の奥で飲み込んだ。
「そうだな」
食器を片付けようと立ち上がると、和子に「あなたは座ってて」と制された。
湯船の中で自分の手足を見つめながら、明日、この身体をどこへ運ぼうかと考える。
考えるほど、視界は立ち上る湯気のように、白い靄に包まれていく。
布団に入って天井をただただ見つめる。
仕事のことを考えなくていい夜は、静かになるはずだった。しかし、空っぽの頭を血液が流れていく音が、耳鳴りのように響き渡る。
耐えかねて、枕元に置いたスケジュール帳を開く。
昨日までのペン跡でざらついた質感は、今日を境につるんと平坦に変わる。
明日から、この広すぎる余白に何を書き込めばいいのか。
公園の散歩か、図書館か、あるいは……。
考えがまとまらず手帳を閉じ、電気を消す。
美咲が参考書をめくる音も静かに止んだ。
隣では、和子が先に寝息を立てている。
私も静かに、瞼を閉じることにした。
#静かな終わり
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
タイトル『歩く速さ』
私の職場はいわゆる『アットホームな職場です』と求人誌に載るような小さな町工場だ。
工場の大掃除を終え、年内最後のシャッターを閉める。仕事終わりの忘年会には全員が参加したが、家庭の事情や遠方から来ているメンバーは帰宅し、二次会には数人が残った。
二次会は繁華街にあるスナック。社長の中学からの友人が一人で切り盛りしている小さな店は、私たちだけで貸し切り状態だった。
カウンターの端でスナックのママと話をしている社長の横で、私と同期の高橋、パートの仲村さんが並んで座る。
「工場にはもう慣れましたか?」
私は仲村さんに訪ねる。彼はもともと社長と仲が良く、彼を『仲ちゃん』と呼んで慕っていた。夜は相棒と二人で小さなバーを営む傍ら、昼間は工場を手伝ってくれている。
「ええ。大したことはできませんけど、楽しく働いてます」
仲村さんは柔らかい笑顔で答える。
少し離れたテーブルでは、まだ二十歳を超えたばかりのアルバイト三人がテーブル席を囲んで笑いながら話をしている。
「……あの三人、本当に仲がいいですよね」
仲村さんが、懐かしむように目を細める。
「幼馴染なんですよね。この前も工場で作業してるとき、次の休みにどこ行くかで盛り上がってましたよ」
高橋は一瞬だけそちらを見て、すぐにグラスへ視線を落とした。
「仕事中に褒められた態度じゃないな」
口調は淡々としていて、怒りはない。
「もっとテキパキ仕事してもらわないと」
設計部門にいる高橋は、彼らとの接点も少ない。現場で製造管理として彼らの働きを見ている私は、なんだか彼らを軽く見られているようで少し腹が立った。
「でもまぁ」私はグラスを置いて言った。「言われたことは、きちんとやる子たちですよ」
「あまり甘やかさないほうがいいと思います」
高橋は表情ひとつ変えずに言う。彼らの何を知ってるんだ――。そんな言葉がつい喉元まで上がってくるが、ここで喧嘩しても仕方がないと、私は言葉を飲み込んだ。
「店、閉めに行ってきましょうね」
徐に仲村さんが立ち上がる。
「そう言えば、今日が年内最後でしたっけ」
私の言葉に仲村さんは静かに笑いながら頷く。
「皆さんはどうぞ夜を楽しんで」
その言い回しがなんとも仲村さんらしかった。仲村さんは社長と軽く言葉を交わして店を後にした。
仲村さんが帰った直後、社長がグラスを置いた。
「三次会、仲ちゃんの店に行こう」
思い立ったらすぐ行動。社長らしい。五十代半ば、昭和の気風をそのまま着て歩いているような人だ。恩を受けたら返す。それだけの話だ、と顔に書いてある。
社長の気迫に押されるように、私と高橋、そしてアルバイトの三人組も顔を見合わせて、ほぼ同時にうなずいた。
店を出ると、年末の冷たい空気が酔いを一気に引き戻した。年の瀬の繁華街は仕事から解放された多くの人で賑わっている。
「タクシー止まらないですね……」
目の前を行き交うタクシーの行灯はどれも消灯している。業を煮やした社長が腕時計を見て言う。
「歩こう。十分くらいでしょ」
私は社長と高橋の横に並んで仲村さんの店を目指す。
「ほんと、仲村さんが来てくれてよかったよ」
社長は今年を振り返るように夜空を見上げる。
少し歩いたところでふと振り返ると、アルバイトたちの姿が見えない。
「まさか帰ったのか?」と高橋が言う。「さすがZ世代だな」
「来てほしかったけどね」
と社長は少し悲しげな表情を浮かべた。
私は歩きながら、どうにも腑に落ちなかった。
昼間の仕事はさておき、彼らは仕事が終わると、私が事務所にこもっていても必ず帰りの挨拶をしにやってくる。無言で帰る姿が想像できなかった。
「きっと来ますよ。まだタクシー探してるんでしょう」
私の口から無意識に言葉が漏れた。
「非効率だな。こんな夜に止まるわけがない」
高橋は即座に切り捨てる。
「理由はどうあれ、それが彼らなりの選択です」
「まぁ、私たち三人だけでも顔を出そう」
社長が前を向いたまま言い、私たちもついていく。
仲村さんの店が見えてくる。繁華街の裏手にある店の前には数人の人影があった。よく見るとアルバイトの三人組が店に入るのを躊躇っている。
「なんで俺たちより早いんだよ……」
高橋が呆然とつぶやく。
「来るって言ったでしょ」
タクシーを待つという選択が運よく功を奏したらしい。私は内心ホッと胸をなで下ろす。
「早かったな――」
私が声をかけると、三人は軽く会釈しながらこちらを振り向いた。
「タクシーなかなか来なくて焦りました」
互いに顔を合わせて笑う彼らの姿が、とても愛らしくみえた。
店に入った瞬間、仲村さんは目を丸くした。それから、照れたように笑った。カウンターには最後の客が帰ろうと立ち上がったところだった。
「最後にここで飲みたくてね」
社長の言葉に、仲村さんも「どうぞ、座って」と優しく席を促す。
私は少しだけ、この工場の未来を楽観した。
みんなが同じ速さで歩かなくても、みんなが同じ方角を向いてさえいれば、きっと前に進んでいけるんだろう。
小さなバーに、温かい笑い声が流れ込み、年末の夜は更けていった。
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
タイトル『蛍雪の功』
その夜、世界はあまりに静かだった。
窓の外では、音もなく降り積もった雪が月光を跳ね返し、うっすらと部屋の中を照らしている。書斎の机に置かれた古いランプは、もう何年も油を差されていない。今の私には、この月明かりと雪の照り返しがあれば十分だった。
私は、開いたままの古いノートを指でなぞる。そこには、私の筆跡ではない端正な文字が並んでいた。
私には、二十代半ばまでの記憶がほとんどない。
医者は「心因性の記憶喪失」だと告げたが、原因となるような事件も事故も、公的な記録には残っていなかった。ただ、ある日気がつくと、私は見知らぬ病院のベッドに横たわっており、それ以前の人生を失っていた。
唯一の手がかりは、退院時の荷物に紛れ込んでいた、ボロボロに使い込まれた数冊の参考書と、このノートだけだ。
「これを見て、何かもっと思い出せればいいのですが」
当時の担当医が同情を込めて言った言葉を、今でも思い出す。だが、ノートに記された数式や難解な古典の注釈を眺めても、思い浮かぶのは言いようのない焦燥感だけだった。私は、自分が何者であったかを知るために、そして、失われた空白を埋めるために、ただひたすらに学問に没頭した。皮肉なことに、記憶はなくても、知識を吸収する回路だけは身体が覚えていた。
「君の集中力には、いつも驚かされるよ」
現在の職場の同僚は、よくそう言って私を冷やかす。
昼夜を問わず研究に明け暮れ、わずかな明かりさえあれば本を読み耽る私の姿は、周囲から見れば『蛍雪の功』を地で行く苦学生の成れの果てのようだったろう。
『蛍雪の功』とはしばしば美談として語られるが、その根底にあるのは凄まじいまでの『飢え』だ。私にとって、学ぶことは教養のためではない。自分の空虚を満たすための、唯一の方法だった。
足跡ひとつない雪原は、何も書かれていない真っ白なページのようだ。そこにいた私を、今の私はもう見ることはかなわない。
ふと、ノートの余白に、薄く鉛筆で描かれた小さな絵があることに気づく。それは、黒く塗りつぶしたような歪な楕円形をしていた。汚れかと思っていたが、月の明かりが差した瞬間、それが『蛍』を象ったものだと直感した。頭の奥で硬い氷が割れるような音がする。
――暗いね。でも大丈夫。雪が降れば、窓際で本が読めるから。
聞き覚えのある声が、耳の奥で反響する。
それは私の声のようであり、私ではない誰かの声だった。
視界が歪み、書斎の風景が、もっとずっと狭くて冷たい部屋へと変貌していく。
そこは、山あいの古い木造家屋の一室だった。電気が引かれているものの、支払いが滞っているのか、電球は灯らない。
インクのシミに汚れた私の小さな指先は今よりもだいぶ痩せ細っていた。
隣にいる人影の顔は思い出せない。しかし、窓の外の雪を見ながら聞こえてくる声には覚えがあった。
「ねぇ、こっちへおいで。ここなら少し明るいから本が読めそうだ。頑張らないと。二人でもっと明るいところに行くために」
その言葉は、呪いのように、あるいは祈りのように私の胸に刻まれていたのだ。
私たちが重ねた努力は、知識への欲求などではなく、ただ、凍えそうな夜を生き延び、ここではないどこかへ辿り着くための足掻きだった。
輝かしい青春などではなく、泥を啜るような困窮と、それを分かち合った『誰か』との約束。
気がつくと、私は書斎の片隅でノートを抱きしめたまま震えていた。
窓の外には相変わらず真っ白な雪が降り積もっている。
「……そうか」
私は、ようやく理解した。
私が記憶を失ったのは、おそらく、その『約束』を果たせなかった絶望を認めたくなかったからだ。
共に雪明かりで机を囲んだあの人は、もうどこにもいない。私だけが、あの夜の執着だけを抱えたまま、空っぽの器として生き延びてしまった。
窓を開けると、冷たい空気が部屋に流れ込み、私の火照った頬をなでた。
月は、高く、冷たく、すべてを等しく照らしている。
私のこれまでの努力も、失われた約束も、これから続く孤独な研鑽も。
私は、机の上にあるペンを手に取った。
ノートの空白に、新しい文字を書き込む。
それは学問の知識ではない。今、この瞬間に感じた、雪の冷たさと、月の青さ。
失われた過去は戻らない。共に歩んだ人の顔も、名前もこの雪の底深くに埋もれている。
けれど、私の指先に残るインクの香りだけは、確かにあの夜から繋がっている。
蛍雪の功――。その言葉の本当の意味を、私は今、ようやく知った気がする。
それは成功への階段ではなく、暗闇の中で、消え入りそうな光を必死に繋ぎ止めるための、孤独な誓いのことなのだ。
まだまだ夜は長い。
私は再び、月明かりの下でノートを開いた。
たとえ、その先に誰も待っていなかったとしても、私は書き続け、学び続けなければならない。
あの夜、雪の反射を頼りに、明日を信じた自分のために。そして、あの人のために。
#雪明かりの夜