タイトル『広すぎる余白』
静かな終わりとは、必ずしも静かな始まりを意味しない。かといって、騒がしいわけでもない。
書類ひとつなくきれいに片付いたデスクを前に、私はこの会社で勤めた三十余年を振り返っていた。
さほど大きな仕事を成し遂げてきたわけではないが、こうして定年まで勤めることができたことは誇らしく思えた。
「みんな、ちょっと手を休めて」
年下の上司である佐々木が二度軽く手を叩き、同僚の注意を惹くように高く通る声を響かせた。
キーボードを叩く音が疎らに途切れ、数十脚の事務椅子が軋む。
佐々木が私に向かって手招きをする。まるで進捗報告を怠って呼ばれる時と同じ表情だった。
私は心の中で言葉を整理しながら、課長のデスクの前まで歩みを進める。私が同僚の方を向き直ると、佐々木が私の肩を叩きながら言葉を発する。
「えぇ、本日をもって、渡辺さんが定年退職を迎えます」
入れ替わりの激しい営業の現場には、私が入社したころの話など知るものは誰もいない。ほとんど定型のような挨拶を短く済ませ、感謝の言葉は最小限に、思い出話は一切混ぜなかった。
「お疲れ様でした」
佐々木から手渡された花束は、春の香りがした。一斉に沸き起こる拍手に送り出されるように、部署を後にする。
エレベーターホールへ向かう背中に、誰かが電話を取る声が聞こえ、キーボードを叩く乾いた音が再開される。
振り返る理由もなかった。
会社を出ると、冬の冷たい風が頬をなでた。
まだ夕方には少し早い、午後四時過ぎ。
帰宅ラッシュにはまだ間があり、地下鉄のホームに滑り込んできた電車には空席が目立っていた。
いつもならドアの脇に立ち、吊革を握ってスマホの画面を眺める時間だ。だが私は、吸い込まれるようにシートの中ほどに腰を下ろした。座面から伝わる微かな振動に、膝の上に乗せた花束の包装紙がカサカサと音を立てる。
ふと顔を上げると、目の前の吊り広告が目に入った。
『第二の人生、自分らしく』
『定年後の資産運用相談会』
文字が大きく、やけにくっきりとして見えた。
――第二の人生……か……。
家の最寄り駅を降りると、居酒屋の看板はまだ消えたまま。近くのカフェはパソコンを開く学生や若者でごった返し、どうにも入りづらい雰囲気だった。
酒を飲むにしても、茶を飲むにしても、そこで何をして時間を潰せばいいのか分からなかった。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、甘い醤油の煮える香りが漂ってきた。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
キッチンから顔を出した妻の和子は、いつも通りのエプロン姿だった。食卓にはいつもより豪華な出前の寿司と一緒に、私の好物である肉じゃがが並んでいた。
「お父さん、お疲れ様」
大学を卒業して以来、自宅で公務員試験の浪人生活を送っている娘の美咲が、厚手の参考書を膝に乗せ、リビングのソファから小さく顔を上げた。
「……ああ。美咲、就活は順調か?」
私が不器用に問いかけると、美咲のページをめくる手が一瞬だけ止まった。冷蔵庫の音がリビングに低く響く。
「大丈夫。ちゃんとやってるから」
美咲は小さく笑いながらそれだけ言って、視線を参考書に戻した。和子が「ほら、冷めないうちに食べましょう」と割って入る。
食卓での話題は、明日からの天気の崩れや、さっきテレビでやっていた健康番組の内容へと流れていった。
箸が進み、寿司桶の底が広くなっていく。咀嚼する音と、テレビから聞こえる声だけが、広いとは言えない部屋を満たしていた。
食事が終わる頃、美咲がふと顔を上げた。
「明日からゆっくりしてね」
和子も、労うように頷いている。
私は、自分の中に澱のように溜まった『何か』を言葉にしようとして、結局、喉の奥で飲み込んだ。
「そうだな」
食器を片付けようと立ち上がると、和子に「あなたは座ってて」と制された。
湯船の中で自分の手足を見つめながら、明日、この身体をどこへ運ぼうかと考える。
考えるほど、視界は立ち上る湯気のように、白い靄に包まれていく。
布団に入って天井をただただ見つめる。
仕事のことを考えなくていい夜は、静かになるはずだった。しかし、空っぽの頭を血液が流れていく音が、耳鳴りのように響き渡る。
耐えかねて、枕元に置いたスケジュール帳を開く。
昨日までのペン跡でざらついた質感は、今日を境につるんと平坦に変わる。
明日から、この広すぎる余白に何を書き込めばいいのか。
公園の散歩か、図書館か、あるいは……。
考えがまとまらず手帳を閉じ、電気を消す。
美咲が参考書をめくる音も静かに止んだ。
隣では、和子が先に寝息を立てている。
私も静かに、瞼を閉じることにした。
#静かな終わり
12/29/2025, 1:44:20 PM