──【靴紐】──
(今日は、ゆずくん1人で靴紐を結べました、か)
4歳の息子の柚希。幼稚園に迎えに行って、奥の方でバタバタと帰り支度を玄関で待っていると、先に担任の先生から連絡帳を渡された。 そこに書かれていた報告を心の中で読み上げる。
毎日、毎日……本当に飽きることなく成長をしていく息子に胸がジンと熱くなる。 今日もまためいっぱい褒める理由が1つ増えた。
「柚希くーん……早く早く~お父さん待ってるよ~!」
少し遠くから先生の声が聞こえてきた。 柚希は一体、なにに手間取っているのか、遊び足りないのかまだ姿を見せてくれない。
柚希が何をしてるのかも分からないのに勝手に口元が緩んでしまった。 それに、遊び足りない環境ならそれはそれでありがたい。新しい友達もたくさんいるようで、父としてはとても安心している。
これはまだまだ時間がかかるな、と思いながら玄関の縁にゆっくりと腰をおろすことにした。 何もかもが子どもたち中心の世界で、全てが小さくて可愛らしい。
小さな下駄箱に、小さな机。小さな靴……まるで僕が巨人になってしまったかのようにさえ思える。そんな下らない事を考えていると、ぱたぱたと柚希が「おとぉ~」とやってくる。
とたとた、てくてく、ぱたぱた、バランスもまだ完全とは言いきれない不安定な歩き方の柚希が。満面の笑みで僕の元に急いできている。
僕も柚希の方を振り向いて、膝立ちで手を伸ばして受け止める準備をする。
「わぁっっ」
「……ッッと」
受け止める準備をしたからと言って、まさか自分のカバンに躓いて飛んでくるのは予想外。 なんとか胸に抱きとめる事が出来たけど、勢い余って額と額がゴツンとぶつかってしまう。
2人揃って似たような顔をして、額に手を押さえて涙を浮かべてた。それがなんだかおかしくて、ぷっと僕から先に笑うと、今にも泣きそうだったはずの柚希も僕と同じようにケタケタと笑い始める。
「ふはっ……それじゃあ、先生にまた明日、して帰ろう」
「ん!おとぉーっとかえるっ」
サラッと柚希の頭を撫でてから促すようにそう言ってから周りを見渡すと、ちょっと心配そうな顔でこちらの様子を伺ってた先生がいた。 どうやら一部始終はばっちりと見られていたらしい。何となく、軽めの会釈だけして誤魔化した。
「せーんせ! またあしたね」
「はーい、またあしたっ!」
先生と柚希がハイタッチしてるのを横目に、別の先生から柚希の靴を受け取って玄関に置く。そして目を細める。
……不器用な、子だ。 その靴の靴紐は確かに結ばれていた。だけどまるで何結びか分からない、結び方だった。
何をどうしたら、そうなるのか、みたいな出来上がりにクスッとせずにはいられなかった。
それに途中から恐らく、結んでも結んでも、紐が短くなりきらなかったからなのか、片方の靴は途中で結ぶのを諦めて靴の中に押し込む形にされていた。
「それでも、確かに結ぼうと頑張ったし、結べてる……うん、結べてる」
独り言を呟いて、可愛らしい靴を再度、眺めていると背中が重くなる。どうやら小さな怪獣が戻ってきたらしい。
「おとぉー!くつ!くつ」
「うんうん、紐結べたな! すごいぞー柚希」
「へへっ」
……くるっと柚希を抱き上げ、改めて先生に挨拶をしてから園を出る。太陽よりも外灯のほうが目立ち始める時間帯で少しだけ肌寒かった。
「おとぉーのくつもあとでむすぶ」
肯定するように、柚希を軽くジャンプしながら抱き直して足早に帰路を急ぐ事とした。 あとで寝静まってから靴紐をどうやって解こうか若干億劫になりながら。
【それでも今日の靴紐ははなまるです】
──【答えは、まだ】──
「はっびばーすでーとぅーゆー……おめでと、柚希」
薄暗い、なんてことの無いマンションの一室。ダイニングテーブルに置かれた小さなホールケーキには7本のロウソクと『柚希 7才おめでとう』と書かれたチョコプレートが飾られている。
「ほら、どうしたんだい? 消さないのか」
いつまで経ってもぱちぱちと、燃えている火を消さない息子を不思議に思って聞いてみる。すると、柚希は視線を左右に動かしながらオドオドとしていた。
「おとー、あのね。一緒に、ふーってしない?」
まだまだうちの息子は甘えてくれるらしい。 あまりにも可愛らしいお願いに、思わず目を細めて笑ってしまった。 ゴトリと立ち上がって、僕は向かい側にいた息子の後ろに立つと、肩越しに頭を出した。
「じゃあ、せーので吹くぞ」
「ん、」
『せ~のッ』
2人で息を吹きかけると同時に、ポッとロウソクの火は消えた。 息子はこちらをふりかえって、はにかみながらも満足そうに笑っている。 そして僕はおもむろに息子の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「改めて、おめでとう。柚希」
「おとー、ありがとう……ママにも言ってくるね」
「おう、」
息子がトコトコと居間の方に歩き出したのを横目に僕は部屋の電気を付けてから席に座る。 そして取り皿にケーキをとりわけ始める。
柚希は母親の顔を知らない。 柚希が産まれて3ヶ月も経たない頃に彼女は病に倒れて亡くなってしまったから。
泣き虫な僕を支えてくれた彼女が授けてくれた、彼女と僕の2人の大切な宝物。あっという間に7年は過ぎた。
柚希は元気に育っているよ。 まだまだ幼い所はあるけど、君に似ている。 いつもあの子には元気を貰ってばかり。
このまま育てばきっと、君が願ったように、柚希は優しくて思いやりのある素敵な大人になるだろう。
だけど、人生はまだまだ長い。 これから初めての谷を降りることもあるだろうし、たくさんの山を登って大人になる。その過程で、どうなるかなんて分からない。
「おとー! ママに言ってきたよ」
「そーか、ママもきっとおめでとうって喜んでるぞ」
「んへへ~」
1人で、思いふけていたら、パタパタと忙しない足音と共に柚希が帰ってくる。笑顔でそれに応えていつも通り、話をする。大きくなったら何になりたい、だとか、そんな他愛もない話だ。
「柚希はゆっくり大人になればいいからね」
「えー!早く大人になるんだもんー」
「そっか、そっか」
本当に、あっという間に大きくなって僕の手から離れるのもそうは遠く無いのだろう。
だけど、まだ「柚希は優しくて素敵な、思いやりに溢れた大人になれるかなぁ……?」と言った彼女の言葉に僕は答えられない。だって、何があるか分からないから。
だから僕は今年もまた、君に昨年と同じ報告をしようと思う。
【答えは、まだ】
──【センチメンタル・ジャーニー】──
きっとまたいつか、僕はここに来る事になる。
汽笛の音に導かれるように、前の人達の波に乗って歩く。 歩きながら遠目に見える、どこまでも続くキラキラとした青い海を目に焼きつける。 無意識に目尻に熱い塩水が溜まって、頬を伝って、日に照らされたコンクリートにポトポトと落ちては、何事も無かったかのようにあっという間に姿形を消し去った。
親指で、交互に頬を伝う雫を拭っていると、ふいに耳元から『樹―いつきくんは泣き虫さんですねー、まったく』と聞こえてきてはっと振り向いた。
分かりきっていたけど、そこには誰もいない。 正確に言えば、僕に話しかける人はこの場に、この土地にいるわけが無かった。ふいに目が合った男性に眉をひそめられて「なにか?」と言われた為、慌てて両手を振って正面を向き直す。
こんな時、やらかした僕を見てあの人はお腹を抱えて、涙が出るほど笑ってからかって来るに違い無い。 そして、僕の背中を強く叩いて『ドンマイドンマイ』って言って……くれるのだろう。
あぁ……まったくもう。 本当に僕は泣き虫だよ。 それは、認める。 鼻水まで出してしまったら、もう、なんの言い訳も出来るわけがなかった。
唯一の救いは、ここが僕の生活圏から遠く、遠く離れた場所であることだ。 電車や船で数時間かけてたどり着く、賑やかだけど賑やかすぎない、そんな場所。
初めての土地を、涙で今のうちに濡らすだけ濡らしてしまう。 今の僕はだれがどう見ても、強い人には見えない。
べつに、もう来ないから情けない顔を見せる訳じゃないし、泣いているわけでもない。 言い訳だって言われても仕方のないことくらい自分でも分かっている。
だけど、それでも僕は、永遠の愛を誓った妻の死を受け入れる為に、あえてここで泣きたかった。
だから、泣きたいがためだけに、僕は初めて妻の産まれ育った地を訪れたのだ。
妻を知る人は、彼女と付き合ってた頃から”既にだれも居ない”事を知っていた。
だからわざわざ挨拶をする人もいないから、来る必要なんて無いだろう、と言われても否定のしようもない。 ただ、妻を失ったばかりの人間の奇行だとでもなんとでも言ってくれても構わない。
愛した人が産まれた土地で、亡くなった妻の事を想うだれかが、1人くらい、そんな涙を流してやりたかった。
そんな愚直な僕だからこそ、またここに来る事になるであろうことはもう分かっていた、決めていた。
そこでようやく僕は、「妻に選ばれたのは僕なんですよと」と、改めてこの場所で報告すると決めているのだから。
だから、今はまだ頬に新しい涙が次から次へと伝うのは仕方がない。
「もう少しで発車しますよー!」
駅員の通る声と同時に、 ”ぽーっ”ともう一度なった汽笛の音。 それが僕の背を押す妻の手が重なったのは気のせいではないと、思いたい。
【だって、一生に一度と言えた恋を失った、泣き虫な僕の心には君の手がどんな形でも必要なのだから】
──【君と見上げる月】──
お風呂上がり、自宅のベランダのパイプ椅子に座りながら僕は涼むついでに一服している。
「今日も、また、」
閑静な住宅街で今日もまた、紺色の世界に包まれて何事もなく終わるのだろう。
そんなことを想いつつ雲に覆われた寂しい月を見上げながら、目を細め手元で燻らせていたタバコを口に運んだ、その瞬間。
ガラガラガラとなんの合図も無しに、窓が勢いよく開かれた。
「ッッッ……ケホッケホッ」
あまりにも、突然な出来事で口に溜めていた煙でむせてしまう。が、何よりもまずは急いで火を消さねばならない。
やって来た人物はただ一人だと分かりきっているから。灰皿にタバコを押し付けて、水をかける。それから最後に軽く立ち上がって自分をぱんぱんと払う……が当の本人はそんな事、気にも留めてないらしい。
「おとー、いた」
「……入ってくるなとあれほど言っていただろう?」
「えへへ」
ベランダの端に体重を預けながら声をかけてくる小さな影。 その影がベランダに置いていた小さなサンダルを履いて、僕の元に、近付いてくるのは息子の柚希―ゆずき―だ。
今年で6歳になるのに、まだ寂しがり屋で、他の子どもたちよりもまだまだ甘えん坊な所もある可愛い僕の一人息子。
一緒にお風呂に入ったから、僕と同じようにまだ髪の毛が湿って、首筋にぽたぽたと水滴が垂れている息子を手招きした。
──少し煙ったい僕の香りと、石鹸の甘い香りがふわふわと、この狭い空間の中で交差した。
トコトコとやって来た息子を抱えあげてから、もう一度パイプ椅子に座る。 膝に乗せる息子はまだまだ軽い。
「ん~~~」
「……ったく」
自分の首に掛けていたタオルをおもむろに取り出して、柚希の頭をそれでわしゃわしゃとかき回せば、呑気にも気持ちよさそうに目を閉じて、揺れでさえも楽しんでいる。
「アイス、食べてたんじゃなかったのか?」
「おとーと半分こ、したいなーってね、なったからね、きた」
思わず口元が緩むのが自分で分かる。 さっきまでもう少し、怒っていたはずなのに、息子のそんな一言でその怒りもどこかに消えてしまう。
「そうか、それは嬉しいな」
「でしょ~、、あ! おとーみて」
「ッッッ……お、う?」
柚希が突然、仰いだせいで僕の顎に柚希の頭が勢いよくぶつかる。恐らく自分にだけガツンと来ている痛みに、思わず目尻に涙を浮かべながらも息子と同じように上を見あげてみる。
しかし見上げた先は先程と何ら変わらない紺色の空と所々、雲に覆われた残念な月があるくらいだ。
一体何をみて柚希は……「おとー、おとー、あのおつきさま……もうふで寝てるの」
目をキラキラに輝かせて、息子は楽しそうに僕の顔と空の月を交互に見ながら教えてくれる。
「月が……寝てる、か」
「ね、ね!おとー!おつきさまも寝てるのね、スヤスヤぁって……あ、あのね!ようちえんでおねんねするのに――」
悪くないものだ。 君とみあげる月に想いを馳せるのも悪くないな。1人、賑やかな息子の声を背景にもう一度、空を見上げる。
【さっきまで曇っていて、残念だと思っていたはずの月が……いつの間にか暖かで、それでいて素敵なものに変わっていた】