お題『大切なもの』
︎ 愛らしい少女がクマのぬいぐるみを抱えて笑う。つぶらな瞳をしきりに輝かせて、無邪気に頬を緩ませる。時折その頬をぬいぐるみに押し付け、柔らかさを堪能しようとする姿があまりにも可愛らしい。何枚ものフィルムにそれらを焼き付けて、記録として残す。少女の写真でいっぱいに詰まったアルバムは既に五冊を超えていた。そこから数枚だけ写真を抜き出し、表情を曇らせている妻を抱きしめる。
「大丈夫だよ」
︎ 肩を震わせる彼女の背を優しく撫でる。しかし震えは増すばかりで、数分経つ頃には泣き出してしまった。こんなに泣き虫だと困るなぁと僕が笑うと、小ぶりな頭をぐりぐりと押し付けてくる。
「……絶対に、生きて帰ってきてね」
︎ 彼女の弱々しい声に、僕まで瞳が潤んでしまう。当たり前じゃないかと虚勢を張って笑い飛ばせば、おもいきり脛を蹴られた。素直じゃない。でもそこが愛おしい。
︎ 涙が落ち着いたらしい彼女がゆっくりと僕から離れ、軍服の襟を直す。その寂しそうな顔を見かねて僕は彼女の頬にささやかな口づけを贈った。
︎ すると彼女は、少女とそっくりな表情で笑った。
︎ てっきり怒られるかと思ったのに、不覚だった。我慢していた涙腺が決壊しそうになり、それを誤魔化すように軍帽の鍔を引き下げる。
「かならず帰ってくるよ」
︎ 大切な、家族のもとへ。
お題『エイプリルフール』
︎ TLを駆けていく数多の嘘。実は……という文章から綴られる、茶番狂言のフィグメント。娯楽が溢れたこの電子世界は、私を決して退屈させない。
︎ 布団を頭から引っ被り、ニヤけた面のまま指をスクロールさせ続けていた私は、限りのない奇想奇天烈な虚言にくつくつと笑いを漏らす。無駄なことをおもいきり楽しむこと以上の贅沢って、他にあるだろうか。笑いすぎて痛くなってきた腹を抱えながら、哲学っぽいことを考えてみる。いや、無い。
「ハハッ」
︎ 反語か。自分のくせに何を知識人ぶっているんだ。いや、だが待てよ、これはなかなかに核心を突いた言葉なのではないだろうか。今の私は冴えている。ユニークでエキセントリックな嘘を、今なら言える気がする。すかさずスマートフォンへと両手を伸ばし、画面にかじりつきながら指を踊らせた。きっとコレはウケるぞ。忍び笑いを抑えつつ、投稿ボタンに親指を重ねる。
︎ 四月一日、土曜日。最高の休日である。
お題『幸せに』
︎ 祝福の鐘が鳴る。空は稀に見る快晴で、雲ひとつありやしない。どこまでも続くスカイブルーの天井には幾多の白鳩が飛び交い、そして戯れ合う。そんな幸福を象徴した景色がキラキラと虹彩を彩り、そのあまりの眩さに僕はうっかり目を細めてしまった。
「結婚おめでとう」
︎ かわいらしい花束を渡せば、眦にシワを寄せて笑う二人。ありがとうと声を揃える様は、まるで生涯を共にした老夫婦のようだった。
「……幸せになってね」
︎ 二十年と数ヶ月。友愛と恋愛を揺蕩った時間。及び腰な二人にもどかしさを覚え、何度も口を滑らせてしまいそうになった青年時代。淡くて、甘くて、どうしようもない失恋を心の奥深くに閉じ込めた少年時代。長い月日は、今日の為にあったのだろう。
︎ やっとくっついたのかという安堵感と、ほんの少しの可能性すら消え去ってしまったのだという未練がましさ。とうの昔に忘れたはずの心がガタガタと騒ぎ立て、相反する気持ちで綯い交ぜになる。
「もちろん」
︎ 胸を張る君の笑顔。荒む心を落ち着かせる唯一のもの。どんな宝石よりも価値のある、僕らの宝物。
お題『何気ないふり』
︎ 硬質な黒鉛の音が響く、昼下がりの教室。
︎ 昼食直後の小テストはあまりにも億劫で、退屈だ。隙間時間にあれほど確認してきた単語もすっかり頭から抜け落ちてしまったのか、過半数を超える空欄を残したまま僕は頬杖をつく。幸いにも睡魔に襲われることはなかったのだが、集中力は削がれてしまって続きを書く気力は湧かない。戯れに鉛筆をくるくると回転させてみた。しかし湧かない。もう諦めてしまおうか。そう溜息をつけば、それに返事をするかのように咳払いが聞こえてくる。
︎ 視線を上げると、教卓の前には赤ペンを回す先生の姿がある。え、と小さく声を漏らせば、先生は口の端をほんの少し上げて、回していた赤ペンを机の上へ下ろす。そして左腕に付けている腕時計をこつこつと叩き、やがて僕と同じ姿勢で頬杖をついた。
︎ 肝を冷やした僕はただちに居住まいを正す。
︎ さり気ない一挙一動ではあるけれど、おそらくアレは警告。何気ないふりをした、集中しなさい、のサイン。