「やわらかな光」良いですよね。まず語感がいい。誰も傷つけなさそうな言葉。光の感触がやわらかいなら、温度は絶対に「あたたかい」だと思う。「熱い」なわけが無い。熱いならその感触は「鋭い」だろう。
自論はこれくらいにして、春の日差しはまさに「やわらかな光」だと思う(最近は夏が前のめりになって春でさえも陽の光は柔らかくないですが、今回は一般的な春の話)。ぽかぽか陽気と称されるのも当然で、適度にあたたかい陽の光が木々の間をくぐり、木漏れ日になって私たちに差し込んでくる。これ以上の贅沢があろうか。冬の間に積もった雪が解け、日向が暖かくなったと感じ、外に出て太陽から降り注がれるやわらかな光に目を細めて、私はようやく春が来たと感じる。
人の視線が怖い時がある。1人で行動する時。良くも悪くも目立つ時。大勢の鋭い視線が一気にこちらを刺してくるような、気持ちの悪い感覚。思春期に入ったあたりから今の今まで目を向けられることがあまり好きではない。中学の時、合唱コンクールの指揮をした。精一杯練習して、迎えた本番。1番盛り上がるところで大失敗した。突き刺さる視線。振り向かなくても観客がどんな顔をしているかが分かって辛かった。A組のみんな、あの時は本当に申し訳ありませんでした。
秋になってきたなぁと感じることが多々ある。朝晩の冷え、空気の乾燥。何より、空が夏よりも高くなった気がする。実際空の青さに到達する具体的な距離などは無いのだが、おそらく雲の位置とか、そういうもので夏よりも高く見えるのだろう。入道雲も見かけなくなり、手の届きそうだと思っていた空は季節が変わると共にいつの間にか高く高く、どれだけ手を伸ばしても、背伸びをしても届かないものになっていた。秋の空は好きだ。夏特有のまとわりつく湿った空気から頬を撫でるからっ風に変わり、それを感じながら空を見上げる。夏から少し青の薄くなった、高く、高い空を見上げ、そうしてようやく秋が来たと思うのだ。
気づけば成人をとうに超え、世間では「大人」と呼ばれる立場になってしまった。しかし仕事も探し中、自立もしていない自分を果たして大人と呼べる人はいくら居るだろうか。かと言って無邪気に走り回れる子供でもなくなってしまった。大人でも子供でもない、宙ぶらりんな存在。一番タチの悪い。こうなればいっその事全てを投げ出して何も知らない無垢な子供のようにはしゃぎ回ってみたいものだが、世間の目は厳しいようでそれを容認する人は少ないのだ。当たり前だ。高校を卒業したら大学もしくは直ぐに就職、大人の社会を否が応でも叩き込まれ、あっという間に大人の求める大人になってしまう。何も親のスネを齧って生きていきたい訳では無い。自立したいと努力もしている。ただ昨日まで子供と呼ばれていたあの子たちを、成人した途端に社会の求める都合のいい存在として扱うのはどうかと思っている。
母校の周辺は観光地であったが適度な田舎であった為、令和の世にも関わらず学生が暇を潰せる施設はコンビニか本屋くらいしか無かった。それでも私たちは1時間に1本しか来ない汽車の到着時間があっという間に来ると感じてしまうほどに放課後を楽しく過ごしていた。SNSの話題を共有したり、唐突に絵しりとりを始めたり、先生も混じってダラダラ喋っていたり。「時間を無駄に消費する」という贅沢を謳歌していた気がする。最寄り駅まで徒歩5分。汽車の時間が来ると小走りで学生で溢れかえった小さな駅に向かう。汽車は二両編成。乗車する学生の数を考えるともう1両ほどあって欲しいものだった。他校の生徒に揉まれながら空席を探し、無ければ諦めて友達同士でくっついて直立する。ゴトゴト、振動に体を持っていかれないように耐えながらイヤホンで音楽を聴く。高校生っぽく単語帳なんかを開くが、もちろん頭には入ってこない。窓から見える田園風景。あのどうしようもなく無駄な時間を過ごしまくっていた放課後が、今になってどうしようもなく輝いて見えて仕方ないのだ!