昔ほどこだわりはなくなったけど、相変わらず寒くなるとこればかりだ。真っ白い安物のマグに、茶葉の入った包みを落とす。ひらりと、紐の先のタグが揺れた。
ポットで保温されたお湯を注ぐと、ふわりとベルガモットが香る。じわりと、滲み出す水色。覗き込みながら深く呼吸をする。懐かしい思い出が、香りと一緒に入り込む。棘のような、だけど妙に幸せな記憶。わかっていながら掌で転がされてしまうのは、ある意味血だろうか。
視界の端で、あの頃の思い出が埃をかぶっている。
〉紅茶の香り
今際の際に人は、何を思うのだろう。
願わくば、穏やかに。眠るように。
〉行かないで
昨日は久し振りによく晴れた日で、今のところ降り出しそうな気配はない。おかげでドアから蹴り出されても、冷たい雨に打たれることはなかった。土のぬかるみも気持ちよく乾いて、僕が倒れた場所は派手に砂埃が舞い上がった。大げさな音を立てて閉まる扉を見届けてから、僕は言い付け通りに仕事をする。だけど今日はとにかく虫の居所が悪いらしくて、いつもよりずっと早くにまた怒鳴りに来るのが見えた。その手に鍵束が見えた。塔だ。見た瞬間に分かった。だけど逃げるなんて選択肢もない。僕は何度目かの暗い道を黙って歩くしかなかった。
森の中にある塔には扉に数えるのが面倒なほどの鍵がつけられている。開くと、軋む音と湿ったにおい。頭上には蜘蛛の巣。一人、ただただ長い階段を登っていく。
この塔に入れられたということは、またしばらく食事も水もない日々だ。雨が降れば多少喉は潤せる。階段の果てまで辿り着き、僕は狭い部屋にたったひとつある、歪んだ窓枠を押し開けた。気休めに換気でもしようと思って。そこでふと、違和感を覚えた。なんだろう。もう一度窓の向こうを見る。目を凝らすと階段のような雲が窓からどこかへ伸びている。これは乗れるのだろうか。半信半疑で手を伸ばすと、確かに触れた。どこに続いているだろう。見るとゆるやかに上へ上へと伸びている。きっと落ちたらひとたまりもない。だけど命なんて最初からあってないようなものだ。僕の命は、僕のものでなく、もうすっかりただの道具だ。
であれば何をためらうだろう。ずっと夢見てた自由が、束の間でも味わえるなら。
窓枠に足をかけて、向こう側へ飛び乗る。まだ落ちていない。確かに雲の上。どこでもいい。どうせこんな日々だ。もう下なんてないんだから。
真っ青な視界をただまっすぐに、雲の道を辿ってどこまでも行こう。
〉どこまでも続く青い空
何を始めるときもそう。必ずそこにあるのは好きの気持ち。まだ無くしてないよ。私はもっと先へ進めますか?
明日への期待も希望も捨て損ねて、まだポケットの中で歪な音を立てる。昨日の明日は素敵ですか?
向き合う自分自身。繰り返す自問自答。終わるのはいつだろう。まぁそんな日は来なくていいけど。
濁流みたいな思考が渦を巻く。全部書き出す。吐き出す。この文字は溜め息みたい。
ノートの一番初め。書き出しはいつも日付から。
〉始まりはいつも
四角く切り取られた視界に、高く遠くなった空。湯気の立つカップからは、懐かしい恋の香りがした。
〉秋晴れ