わたしには、かつて名前が無かった。
あるのは、数字とラテン文字の羅列だけだった。
何故かというと、わたしの身分は奴隷より更に低いからだ。
わたしのような身分を、道具や武器、人形や傀儡という。
その言葉が示すとおり、わたしたちには主がいる。
今のわたしには、名前がある。
今は亡き主様が有するもの、全てを貰った。
名前に身分、富など……数え切れないほど頂いた。
あなた様が為せなかった、
全てをわたしが受け継ぎ、少しでも成すために。
あなた様の苦しみと悔しさまでも受け継ぎ、
あなた様が描いた、理想の世界を実現するために。
わたしは、あなた様と交わした約束を果たすべく、今日も努めて参ります。
目は閉じ、口は弧を描く。
上品に微笑みながら、さり気なく気遣う。
時には甘い言葉を囁やき、時には励ましと労いの言葉を掛ける。
あなたは触れられる前に、その手からすり抜けてしまう。
あなたを欲してしまえば、そこには居なくなってしまう。
口の中で、甘く、蕩けて、無くなる。
そう、あなたは、まるで蜜のよう。
楽園という名の、あなたという名の、
鮮烈な、甘く、蕩ける、毒を知ってしまえば、
もう他のものでは、満たされない。
生きる意味など、私には無い。
唯、生きたから、生きる。
唯、それだけ。
「面を上げよ。」
威厳のある、低い男の声が響く。
その声は、深く……土下座をした、初老の男に向けられた。
初老の男は罪人のように手錠をしていたが、
その容姿、その所作から、高貴な身分であることは明確だった。
「私なら、どんな目に遭おうと構いません。
あの方だけは……、あの方に連なる血筋の方々だけは……、
処刑しないで下さい。
どうか、どうか、お願い致します。」
初老の男は、膝を付き、手をハの字に置き、深く頭を下げた。
威厳のある男は、初老の男の行動が全く理解出来なかった。
彼が知っている、高貴な身分の人間は全く頭を下げたりなどしなかった。
だから、彼は初老の男の懇願を退けた。
そして、彼は初老の男の言う、『あの方』と『あの方の血筋に連なる方々』
を皆処刑した。
何故なら、彼にも……初老の男のように、
彼を信じ、仕え続けてくれる者たちが居たのだから。
妻の愉しそうな声が、庭の方から聞こえてくる。
そして、妻と楽しそうに話している、彼の声が聞こえてくる。
一筋の冷たい液体が、私の頬を伝い落ちた。
何故だろう。
私は、あわててハンカチを取り出して、
ハンカチを見て、また、目から冷たい液体が頬を伝う。
このハンカチは、妻が初めて刺繍したものだった。
落ち着こうと、コーヒーを淹れても、
冷たい液体は、目から一滴ずつ流れてくる。
気が付くと、リビングのソファに横になっていた。
どうやら、泣きつかれて、眠ってしまったらしい。
目の前に、暖かい紅茶が置かれた。
「貴男。」
妻の優しく澄んだ、いつもの声がした。
「はい。」
何だが、泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、
妻と目を合わせられなかった。
すると突然、妻は私を抱きしめた。
「ごめんなさい。わたしは、貴男に甘え過ぎてしまっていた。」
視界がぼやけて、涙が溢れた。
「こちらこそ、ごめん……。彼を招いて良いよって、言ったのに。」
「良いの。貴男のおかげで彼と再会することが叶った、本当にありがとう。」
「私を尊重してくれて、ありがとう。」
私は、妻を抱きしめた。