最高級品の和紙に文鎮を置き、硯で墨を磨る。
墨汁は便利だが、硯で磨った墨には敵わない。
筆に墨を吸わせ、硯の端で墨を拭う。
一文字、一文字、集中し過ぎないよう意識しながら、文字を書き連ねる。
そして、和多志の名を署名し、筆を置く。
最後に、玉印に朱肉を付け、署名の下に玉印を押す。
之で終わり。
重要書類を書いた後は、どっと疲れる。
之ばかりは、未だに慣れない。
窓から外を見ると、日は沈みかけ、空を朱く染めていた。
『たまには早く帰って、家族と過ごせ。そう云う時間は、無限では無いよ。』
上司に云われた言葉を思い出す。
今日は、早く帰ろう。
今夜は空気が澄み、月が美しい。
こういう日は、月見酒がしたくなる。
夜分遅くに仕事が終わり、久々に誰かと呑みたくなった。
「なるほど、それで和多志のところへ訪ねてきたと。」
そして、同僚の男を何の約束無く、夜分遅くに訪ねた。
「はい。酒瓶は、持ってきました。」
「和多志が明日、仕事なのをご存知ですか。」
「はい。たまには、こういうのも悪くないと思いまして。」
男同士、年齢も一つか、二つしか変わらぬ為、
悪びれもなく、図々しく呑みに誘ってみる。
「お断りします。と、言いたいところですが、今日は付き合います。」
「有難うございます。一つ、借しにして下さい。」
「いえ、以前こちらが借しを作ったので、これで帳消しです。」
縁側に二人で座り、杯では無く、湯のみに酒瓶を傾けて酒を注ぐ。
「「乾杯。」」
「やはり、仕事終わりの酒は別格です。」
「……どこの清酒ですか。」
「知人が酒蔵をやっていまして、そこの少し良い酒です。」
「良い酒だ。」
「そうでしょう。知人に伝えときます。」
「今夜の月は、見事なものです。」
「だから、誘ったのです。」
そこからは無言のまま…酒瓶の酒が尽きるまで、月を見ながら呑んだ。
「では、帰ります。」
「清酒、有難うございました。」
「いえ、こちらこそ、呑みに付き合って頂きましたから。」
「では、又。」
灯籠の要らぬほど明るい、良い月夜でした。
理想と現実。
どちらも、重要だ。
だが、どちらか偏ると諸刃の剣となる。
我が主君たる、あの方は其の重要性をよく理解されている。
だから、あの方は策を練られる際に理想と現実の割合を重要視する。
そういえば、あの方に忠誠を誓ったのも、
理想と現実のバランスが取れた方だったからだ。
私には、理想像を描くことが出来ない。
だが、現実像を把握することは出来る。
其処をあの方に買われ、側近となった。
あの方の右腕たる、筆頭は理想像を描くことが出来る者だった。
筆頭が理想像を描き、私が現実像を把握し、あの方が調整する。
そして、筆頭の弟子と私の弟子が実行する。
これが私達の最善の進め方であり、やり方だった。
n:意味を理解しているのか。
e:嗚呼、勿論。
w:賛成だ。
s:ハハハッ、面白い。私も賛成しよう。
e:盤上一致だな。
n:私は賛同していない。
s:まあ、良いじゃないか。
w:あなたなら、大丈夫だろう。
n:はぁ、分かった。賛同しよう。
e:よし、ならば決まりだ。
『我ら四人の名に誓い、
いつ如何なる時も、我らは何より民を最優先し、
己が滅びの道を辿ることに成ろうとも、
民の自由と平和を守ることを、此処に誓う。
N.E.W.S』
たまに、帰りたくなる。
此処より陸路で東へ進み、海を渡った先にある、
極東と呼ばれる、私の故郷に帰りたくなる。
今、この大陸の国は他国に侵攻している。
侵攻は周辺の国々を滅ぼし、飲み込むまで続く。
国々を完全に飲み込み、安定するまでは帰れない。
其れが達せられるのは、最低でも十五年後の事だろう。
其れまでは、帰れない。
この侵攻は、永き戦乱の世を終わらせる為のものだ。
幸い、この国の大王は人の痛みを知る人だ。
だからこそ、この永きの戦乱の世を終わらせようとして居られる。
私は、この国に恩がある。
その恩を返す為に…私は此処で生きている。
あと、何万人の人々が犠牲になるのだろうか。
この大陸に平和は、本当に訪れるのだろうか。
それらを考えるだけで、辛くなる。
大王や其れに尽力する人々は、この苦しみをどうやって……
乗り越えているのだろう。