「なぜ泣くの?と聞かれたから」
なぜ泣くの?ってあなたが聞くの?
今しがた私をフッたあなたが?
なんて酷い男なの。
私があれだけ好意を露わにしていたのに、一切靡こうとしない。
女の子の「嫌い」は「好き」の裏返しって小学校で習わなかったのかしら。
「俺は嫌われてるから」ってそんなわけないじゃない。
本当に鈍い男。
なのに、どうして急に鋭くなるの?
どうして、生まれた時から一緒にいてくれたペスが死んで、平静を装うとしていた私の悲しみを見抜いてくるの?
あなたのせいで、私は「普段クールぶってるくせにペットが死んだら泣きじゃくる情に熱い人」にされてしまったじゃない。
そんなの好きになっちゃうじゃない。
だからこの私が恥を忍んで言ってあげたのに「あなたを見ていると、あまりに哀れだから、この私が彼女のフリをしてあげてもいいわよ?」って。
なのにあなたは「好きな人がいるんだ。自分本位に見えて、誰かのために悲しめる、こんな僕にいつも話しかけてくれる優しい人。その人に自分から告白できるようになりたいんだ」ですって?
なによそれ、絶対に許さないわ。私の心を奪っておいて、別の女に目を向けるなんて。
必ずあなたの事を振り向かせてみせるんだから!
それにしても、私以外にあいつに話しかけてる女なんていたかしら…?
「足音」
長く共に暮らした家族程になると、足音で誰が部屋の外を歩いているのかわかるようになる。
力強く床を軋ませて歩いてくるのは父。ぺたぺた急ぎ足で家中を駆け回っているのは母。同じく駆け回っているものの、音の感覚が短い弟。
大学生になって家を出るまでは、この判別法で間違いなかった。
だが、私が妻を連れて実家に帰るくらいの歳になると、いつもの判別法が通用しなくなっていることに気がついた。
父の足音が昔と比べて明らかに大人しくなっていた。母は家中を駆け回る事が減った。
そして、弟の足音の方が父と同じ音になっていた。
こんなところでも親の老いを知る事になろうとは思わなかったなあ。
「終わらない夏」
夏休みが終わって欲しくないと思った事がある人は多いだろう。
他ならぬ私もその一人だ。
しかし、本当に終わらなかったとしたら、それはそれで困る。
夏休みを共に過ごす友達の多くは、学校でできた人がほとんどだし、彼らとの関係は校舎で育まれたからだ。
何より私は冬も好きだ。
大好きなみかんが旬な冬は、何ものにも代え難い。
もしかすると、私達が夏休みを楽しいと思えるのは、夏休み以外の時間のおかげなのだろうか。
「遠くの空へ」
悩みがある時は、高い所に登って街を見渡すといい。
ミニチュアの様な人々や車が細々と動いている。
上から眺めると、私達もあんなちっぽけに見えているのかと、よく実感できる。
まさにその通りだ。
馬が合わない上司も、自分を大切にしてくれない恋人も、誰よりあなたを愛してくれている家族も。
そして他ならぬあなた自身も、こんなにちっぽけな存在に過ぎないのだ。
そんなちっぽけな事に思考を支配されて、頭を悩ませるのがどれだけ馬鹿らしい事か、あなたは思い知るだろう。
ちっぽけな人間の営みを眺めるのは止めて、空を見上げてごらん。
どれだけ高いビルや山に登ろうと、空はどこまでも広がっていて、地平線の先を見渡すことはできない。
ちっぽけな人間に悩まされるのはもうやめて、遠くの空へ視野を広げてみよう。
「!マークじゃ足りない感情」
文で使われる感情を表すマークは!と?のみだ。
小説を書いていると、もう少し感情を表すマークがあってもいいんじゃないかと思ってしまう時がある。
例えば驚きの感情。
ひとえに驚きと言っても、様々な種類がある。
急に後ろから声をかけられた時の驚き、映画で意外な展開が起きた時の驚き。
これらの驚きが全て「!」で表現しきれるものではない。
心理描写を加えればいい話なのだが、補足で登場人物の感情が理解できるより、セリフを見た瞬間に話者の感情が伝わると便利なのにと思ってしまう。