「君が見た景色」
人は伝える術を数多持っている。
文字、絵、声、五感を駆使する事で、人は他者の経験を自身の中に具現化できる。
特に精巧な絵であれば、作者と同じ景色を見たと言っても過言ではあるまい。
しかし、それらの方法を使っても、絶対に共有する事ができない景色がある。
それは死の寸前の景色だ。
死ねば、何も伝える事はできない。
死後に何かを伝えるには、死ぬ前に遺しておく他無い。
けれど、死ぬ寸前の景色は、死ぬ寸前にしか見ることはできない。
死の瞬間を記した文献は数多く存在するが、そのどれもが実際に死の寸前の景色を見て記したものではない。
ああ、死んでいった数多の先達よ、あなた達は最期にどんな景色を見たのか?
「言葉にならないもの」
小説を書いていると、言葉では表現しきれない心情に相対する事がある。
自分の文章力を全力でフル活用しても、どうもしっくり来ない、そんな場面に遭遇したことは無いだろうか。
そんな時、漫画は便利だと思ってしまう。
明確に文字で表さずとも、今私が考えている登場人物の表情を書けばそれで済んでしまうから。
しかしそう思ってしまうの、私が絵と真剣に向き合ったことが無いからだろう。漫画には漫画なりの難しさや、小説を羨ましいと思う事が多々あるはずだ。
己の中身から溢れ出る想像力を表現する方法として、私は小説を書く事を選んだ。
きっかけは軽いものであったが、今となっては私という人間の大部分を占める大切なアイデンティティだ。
悩み苦しむというのは、むしろ私が真剣に向き合っている証拠なのかもしれない。
「真夏の記憶」
小学生の夏休みは6回あったはずなのに、あまり具体的な記憶が無い。
一日日記も付けていたのに、〇年生の夏休みにこんなことがあった、と思い出せない。
あまり衝撃的な出来事が無かったのだろか。
それもあるだろうが、自分の学年や年齢を強く意識する理由があまり無かったのではないかと思う。
一年生から五年生までは常に上の学年がいるし、あまり責任感というのも生まれない。
多少責任が芽生えるのは、最上級の六年生になった時ぐらいだろうか。確かに六年生の時に起きた事は、割と覚えている気がする。
あとは中学以降は、自分の進路など未来を考える事が増えたり、思春期特有の刺激を受ける日々が多かったのが、関係しているのかもしれない。
小学生の頃は、宿題を終わらせればいいだけの夏休みがずっと続くものだと思っていた。
気づけば夏休み中の部活や補修、受験勉強。
年齢を重ねる程に、やらなければいけない事が増えていった気がする。
気の赴くままに過ごしていたあの頃に戻りたいと思う事もあるが、今の生活を捨て去ってまで戻りたいかと聞かれると、そうでもない。
覚えていなくとも、あの夏の記憶は、今の私の糧に確かになっているはずだから。
「こぼれたアイスクリーム」
幼少期、買ってもらったアイスクリームを、落としてしまった時の絶望を誰しも感じたことがあるのでは無いだろうか。
食べ進めていたならばまだしも、全く手付かずで落としてしまった時にはもうお手上げだ。
一瞬で涙が込み上げ、幼き日の私は泣き喚いたことだろう。
せっかく貰った100円玉を握りしめて買ったアイスクリームの、変わり果てた無惨な姿はトラウマものだ。
成人した今となっては、100円のアイスなどいくらでも買えるし、アイスの値上がりに物価の上昇を実感する。
しかし不思議なもので、いまでもあの頃のアイスの味と、硬貨を握りしめている感覚は、ずっと覚えているのだ。
「やさしさなんて」
やさしさとは、薬である。
傷ついた心を癒し、この世も捨てたものじゃないと、希望を抱かせてくれる。
やさしさとは、毒である。
分量を間違えれば、対象の体を蝕み、ついには死へ至らせる事もある。
薬も毒も、原料は同じだ。
違うのは使い方。
厳しすぎず、甘やかしすぎず、適度にやさしさを用いたいものだ。