「風を感じて」
時刻は18時。
夏の日差しを浴びながら、昼過ぎに登った長い坂を、私は愛用の自転車に股がって駆け下りる。
もう夏休みは終盤に差し掛かっているが、日が落ちる時間が早くなる気配はまだ無い。
自転車のライトの出番は、もうしばらく無さそうだ。
いくら仲のいい友人の家に遊びに行くためとはいえ、この坂を毎回登るのは骨が折れる。
友人の家に着く頃には、滝のような汗をかき、しばらくは遊ぶどころの話ではない。
私はこれほどに苦労して毎回訪問しているというのに、もう一人の友人の家は目と鼻の先なので、私が着く頃には涼しい顔をしてゲームに興じている。
羨ましがったところでどうにもならないが、若干の不公平は感じてしまう。
まあ、結局体力が回復して遊び始めれば、楽しくてそんな事はすぐに忘れてしまうのだが。
何より私の苦労を吹き飛ばすのは、この帰り道だ。
全速力で自転車を漕ぎ、全身に風と重力を感じて駆け下りる気持ちよさは、そう感じられるものではない。
もはや私はこの感覚のために、毎回しんどい思いをして、友人の家に遊びに来ているのではないかと思う。
危険なのは重々承知しているが、一度や二度、派手に横転してくらいでは、この気持ちよさを手放す気にはなれなかった。
結局大怪我をするよりも、その友人と疎遠になる方が早かった。
危険よりも、好奇心に従い、無鉄砲に突き進んでいた若いあの頃。
今となっては風のように過ぎていった日々、当時としては永遠に続くと思っていた日々。
はるか昔に駆け抜けた、ひと夏の風のような、そんな記憶の一片。
『夢じゃない』
憧れのあの人が目の前にいる。
憧れのあの人が私に愛を囁いている。
それはまるで夢のような日々。
何もかもが私の思い通りになる事が、何故か潜在的に理解できる。
きっと次にあの人は、あの言葉をかけてくれる。あの人は、私を強く抱き締め、求めてくれる。
そして急に理解してしまう。
世界はこんな思い通りになるほど簡単では無いことを。
自分の思い通りになる世界を私は知っている。
しかし、心地よい日々を手放すまいと、私は強く念じ始める。
「これは夢じゃない。夢じゃない。夢じゃない」
だが、私の抵抗虚しく、深く沈んでいた意識は、為す術なく浮上し始めた。
また、思い通りならない世界が始まる。
『心の羅針盤』
君達は、今を生きるうえで大切にしていることはある?
人生とは、まるで大海原だ。
広大で、終わりは一向に見えない。時には自分がどこにいるかわからなくなることもあるだろう。
そんな時は、心の中に羅針盤を持つといい。
突然自分がどこにいるのか、何者であるのかわからなくなった時、君はここにいるのだと教えてくれる羅針盤。
それは人かもしれないし、物かもしれない、はたまた形を持たないかもしれない。
それが実際何なのかはわからない。
心の中の羅針盤は、人の数だけ存在する。
きっと羅針盤は、君の航海を手助けしてくれるに違いない。
だから人々よ、まずは人生の羅針盤を探すことから始めよう!
「またね」
命は儚い。
人は強いようで、本当は弱い。
交通事故はもちろん、朝布団をまくると冷たくなっていたなんてのは、よく聞く話だ。
人は簡単に死ぬ。
けれど私達は、別れの時に「またね」と言う。
たとえ明日また会う予定だとしても、今日無事に帰れる保証はどこにもない。
では「またね」と言う人は、命の儚さを理解していないのだろうか。
平穏な日々がいつも通りに続いていくと考えている、呑気な人なのだろうか。
きっとそれは違う。
「またね」と言うのは、願いなのだ。
また会いたい、また会えますように。
そんな願いが込められた言葉なのではないだろうか。
だから私は今日も「またね」と別れの言葉を口にする。
また明日も、この平穏な日々が続く事を心から願って。
『泡になりたい』
魚になりたい。
広大な海を自由に泳ぎ回りたい。
でも、海の世界は弱肉強食。
弱い私はきっとすぐに食べられてしまう。
天敵がほぼ存在しない、現代の人間の権力を捨てたくはない。
間を取って、人魚姫になろうかしら。
大海原を自由に泳ぎ、理想の男性に恋をして、そして失恋をした私は、泡となって消えていく。
人生なんてそんなものでいい。
いや、元より人生はそんなものなのかもしれない。
どれだけ激動に精一杯人生を生きようと、最後は皆死体となって、その身は朽果てる。
泡になって消えていくのと、少しずつ土に還る事の何がそんなに違うのだろう。