『ただいま、夏』
小学生低学年の時、我が家の門限は17時だった。
秋に入り、紅葉すら枯葉に変わる季節には、17時にはほぼ日が落ちてしまう。
さすがに小学校に入って間もない子供に夜道は危ないし、私自身も一人で暗闇を歩くのは恐ろしかった。
だが、夏は日が長い。
18時を過ぎても、なお夕日が街を照らす。
スマホも腕時計も持っていない、公園の真ん中にそびえ立つ時計だけが時間を支配していたあの頃。
遊びに夢中で時計を見ることを忘れ、陽の明るさだけを頼りに遊んでいた時、私はふと時計を見た。
17時30分を既に回っていた時には、背筋が凍りついた。あの感覚は今でもよく覚えている。
そして同じ事を毎年何度も繰り返す。
高学年になった時には、18時を過ぎて帰宅した日もあった。あの時は、まるで盗みでも働いてしまったかのような罪悪感に苛まれながら帰路に着いたものだ。
これもある種、夏の風物詩だろうか。
またこの季節がやってきた。
ただいま、夏
お題「ぬるい炭酸と無口な君」
セミの鳴き声が夏の到来を伝える8月、学校の玄関に座り込んだ僕と君の間には、長い静寂が落ちていた。
元を辿れば、帰路に着く寸前の君を僕が呼び止めたのが始まりだった。
夏休みで校内に人は少なく、玄関には僕達以外の人の気配は無かった。
君と二人きりになるために、こんな良い機会はそう無い。
「ちょっと話さない?ジュースでも奢るからさ」なんて自然に誘ったつもりだったけど、実際は早口で挙動不審な口調になってしまった。
しかし君は、いつもの笑顔で僕の誘いに応じてくれた。
初めはそれなりに会話もあったけれど、20分もしたら話題も尽きてきて、無言の時間の方が長くなっていた。
手に握ったコーラの中身は約一口分が残っていて、すっかりぬるくなり炭酸も抜けてしまっている。
けれど、これを飲みきってしまうと、この場に残っている理由が無くなってしまう気がして、最後の一口に口をつける勇気が出ない。
君の握るコーラもおそらく同じような状態なのだろう。
けれど、僕も君も最後の一口を飲み干そうとはしない。
君も僕と同じ気持ちでいてくれるのだろうか。
きっと同じ想いなはずなのに、不思議と二人とも次の言葉が出てこない。
しかし、何故か気まずいとは感じない静寂の空間。
しばらく続いた二人だけの空間に、セミの鳴く声だけが響いていた。
ざぶーん、ざぶーん。
広大な海よ、母なる海よ。
私の想いを運んでおくれ。
この時代にボトルメールだなんて、時代遅れだとわかっているけれど、もう私はうんざりだ。
電子の海で情報の波に揺られるのに、私は疲れてしまった。
どうせ相手の顔が見えないのなら、ボトルメールの方が幾分ロマンチックではないか。
不思議なものだ。SNSで出会いを求めるのと、行為の本質は変わらないのに。
流す海が違うだけで、さも私が純粋な心の持ち主に思えてくる。
私は純粋無垢な想いなど、ちっとも持ち合わせてはいないのに。ここにいるのは、電子の海に溺れ、恐れを抱き、真に母なる海に逃げて帰った臆病者だ。
夢を見て出てきた都会に打ちのめされ、故郷に帰ってきた田舎者と同じだ。
さあ母なる海よ、疲れた私の心を癒しておくれ。
いい歳になった子供に、お見合い話のひとつでも持ってきておくれ。
今年も8月がやってきた。
また君に会えるのが、心から嬉しい。
小学生の頃、君が住む田舎まで行く事がどれだけ楽しみだったか、君にわかるだろうか。
毎年終業式が終わった日の夕方には、家に着くなり絵の具セットやアサガオを放り投げ、今年はいつ君に会えるのかと母に尋ねたものだ。
初めの方は母も微笑ましく教えてくれたが、私があまりにも同じ質問をするものだから、何度「いい加減にして!」と叱られたかわからない。それでも私は君の所へ向かう前の日まで同じ質問を繰り返した。
今思えば、母には申し訳ない事をしたと思う。
それだけ君と過ごす一分一秒が、私には何物にも代えがたい大切な時間だったんだ。
昨日の夕飯は思い出せないけれど、君と過ごした時間は、長い時が経った今でも、僕の心に深く刻まれているよ。
また、君と流しそうめんが食べたいなあ。池でザリガニを釣るのも楽しかった。君がザリガニを分解して食べ始めた時はどうしようかと思ったよ。ザリガニはちゃんと泥抜きをしないと食べられたものじゃないからね。
一緒に遊んだポチはまだ元気にしているのかな。
よく干し柿をくれた、隣のおばあちゃんは息災だろうか。
すまないね。君が遠くに行ってしまってから、私は一度も田舎に行けていないんだ。
私にとって価値があったのは、田舎で過ごす時間ではなく、君と過ごす時間だったんだからね。
あの時はすまなかったね。
君と離れるのが本当に悲しくて、涙が止まらなかったんだ。
泣き尽くせば、涙も枯れるのかと思ったけれど、そんな事は無かった。だって私は今でも、君との淡い夏の思い出を想起する度に、涙がいくらでも溢れてくるんだから。
時が経てばそのうち悲しみも朽ち果てる、と考えた事もあったけど、やっぱり駄目だね。
他ならない私が、君との思い出を忘れたくないと思っているのだと、最近になって気づいたよ。
君との思い出が、今の私を形作っているんだ。
そう気づいた後は早かった。
今まで避けていた田舎に唐突に行きたくて仕方がなくなってしまったんだ。
両親も驚いていたよ。急に私が君に会いに行くと宣言したものだから。
随分待たせてすまなかったね。
今年の8月は、君に会いに行くよ。
君の好きだった赤い菊と、スイカを持ってね。頼むから、スイカはカブトムシの餌になる前に食べてくれよ。全くなんだってあんな山奥に墓を建てるんだか。
ようやく私にも、夏の終わりがやってきそうだよ。
ああ、でも、やっぱり嫌だね。別れの時間は。
毎年訪れる君との別れの時ほど辛い時間は、他に無かったよ。
多分今年は大丈夫だと思うから、今年こそ君に会いに行くよ。だから楽しみに待っていて。
果たして君は、久しぶりに会った私を、私だと気づいてくれるだろうか。
君と違って、私は少し背が伸びて、雰囲気も随分と変わったからね。でもきっと君は、あの頃と変わらない笑顔で私を出迎えてくれるのだと、私は確信している。
沢山話したい事があるんだ。
皆が寝静まった後、こっそり夜更かしをして語り合ったあの頃のように、また沢山お話をしよう。
数年ぶりに君に会える8月がやってきそうだ。
ああ、早く君に、会いたいなぁ