何も知らない土地に引っ越した。
初めての場所。
初めての風景。
とても緊張していたけれど。
いつしか窓から見える景色に。
心安らぐようになって。
一日の終わりに、ああ、疲れたなぁと。
溜息が自然に出て肩を下ろせるようになると。
僕はここが自分の帰る場所になったのかなと。
そんな自覚をし始めて。
ああ、良かったなぁと、ほっとする。
【窓から見える景色】
カッコイイもの。
好きなもの。
便利なもの。
流行ってるもの。
高価なもの。
そんなものに憧れては。
手に入れたくて頑張ってみたりもするけれど。
ひとりになった時。
ふと頭が空っぽになって。
心の中も何だか空虚になった時。
そんな時、衝動的に欲しくなるものは。
いつも形の無いものばかりなんだよな。
【形の無いもの】
ある時、僕が公園でひとりぼっちで遊んでいると、「ねぇ、一緒にあれに登ろうよ」と、いつの間にか知らない男の子が寄ってきていて、敷地の真ん中にある大きなジャングルジムを指さした。
僕はあまり気乗りがしなかったけれど、男の子があまりにも強く誘うものだから断れなかった。僕が頷くと男の子は満面の笑みになって僕をジャングルジムの方へ引っ張っていく。近くで見るとあまりにも大きく感じるその遊具の存在に、僕はひっそりと息を飲み込んだ。
「君はここから、僕はあっちからスタートするから、先に天辺まで登ったほうが勝ちね」
そう言い置いた男の子は、僕がいる所の向かい側に位置する場所に回り込んでいった。
「じぁあ、行くよー!」と、遠くから聞こえる男の子の声を合図に、僕はジャングルジムを登り始める。慎重に一歩一歩、上へ上へと手足を動かした。
「あ」と、途中で僕は声を上げる。登ろうとした足が滑り掴んでいた手を離してしまった。幸いにもまだ一段目あたりであったから、浮いていた足が地面についた途端、尻餅をついただけで済んだ。
僕は地面に座ったままジャングルジムを見上げる。奇妙なことにさっきの男の子の姿がどこにもなかった。代わりに「チッ」と、耳の側で誰かが舌を打ったような音がした。
僕はさっきまで話していたはずの男の子がいなくなったことが不思議だったけど、またジャングルジムに登る気も失せてしまって、その日はそのまま家に帰ったのだった。
それから、これはずいぶんと後になって知ったことだけど、あのジャングルジムに登った子供が天辺から落下するような事故が何件か起こったらしい。そのせいであの遊具はしばらく使用禁止になっていたそうだ。
次にもし僕があの男の子に会ったら、落ちたら危ないからジャングルジムはやめて別のもので遊ぼうと誘ってみることにしよう。
【ジャングルジム】
しくしくと誰かが泣いている。
地面に座り込み、背中を丸め、顔を俯けている誰かが見えた。
その人の姿を見ていたら、いてもたってもいられなくなって、私は駆け寄る。
丸まった背中に柔らかく手を置いて、私もその人の隣にしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
私がそう尋ねても相手は顔を上げない。しゃくり上げ、嗚咽を漏らし、涙に濡れ続けている。
そのうち吐息のような小さな声がこぼれた。
私はそっとその声に耳を澄ます。
「怖いの」
詰まるような声音で、ただそれだけが聞こえた。
私は泣き続ける背中を何度も摩る。
「大丈夫だよ」
私の声に相手が反応して顔を上げた。目を赤く腫らしたその表情を見て、私はああと納得する。
「でも、怖いのが止まらないの」
「なら、そのままの貴方でいいよ。大丈夫、絶対に大丈夫だから」
私はニコリと微笑みかける。相手は驚いたのか目を丸くさせていた。
「どうしてそんなことが分かるの?」
「だって貴方は私だから」
私は彼女を抱き締める。包み込むようにぎゅっと、その震える肩を守るように。
「貴方の怖さも寂しさも、全部私のものだから」
だから帰って来て。
「もう私は大丈夫だから」
【声が聞こえる】
穏やかな風が吹き抜ける。
隣を歩く彼女が心地好さそうに、長い髪を揺らしていた。
過ぎ去って行く夏の空気に、僕は少しだけ後悔している。
たくさんあった夏の思い出の中、僕は彼女と多くの時間を共有した。あんなにも一緒にいて、二人きりになる一時だってあったはずなのに、僕は未だこの胸にしまう気持ちを取り出せないままだ。
夏の暑さに浮かれれば、その勢いで言えるかもなんて、淡い期待までしていたのに。僕の意気地の無さは予想以上だったらしい。
「もうすぐ秋だねぇ」
柔らかに口元を綻ばせた彼女が、嬉しそうに言う。
「別に夏は夏で嫌いじなかったけど、私、秋って好きだなぁ」
「まあ、気温も過ごしやすくなるしね」
「ほら、秋って景色が色付く季節でしょ? だから、すごくいいなって思うの」
彼女は何故だか首だけを僕の方に向けて、嬉しそうにはにかんだ。
「きっと綺麗で楽しいよ」
そう告げた彼女の笑顔が、まるでスロモーションのようにゆっくりになって、僕の瞳に焼き付く。
ああ、まいったなぁと、内心で溜息をつきながら、僕は表情に出さないよう何とか耐えた。
秋の涼しさに当てられても、自分の中に燻る熱までは冷めないようだ。
そんな自覚を改めてしてしまえば、僕の心は早くも鮮やかに色付き始めていた。
【秋恋】