その日はときおり風が吹く夏の日だったと思う。
陽射しは眩しかったけれど、時々肌を撫でていく緩やかな風が心地よくて。
その時はまだ4歳か5歳くらいだった私は、外を思いっきり歩く気持ち良さにウキウキしていた。
そうだ。確かあれは保育園で行われた親子遠足という行事に参加していた時だった。
私には同い年の双子の妹がいて、行事に参加していた私の母親は、当然ながら他のお母さんが自分の子どもと一対一になって行動するところを、子ども二人に親一人という、少し大変な状況の中で頑張ってくれていた。
遠足の道程がちょうど大きな川に架かった橋を渡る段階になった時、先生から親御さんと手を繋いで一列になってくださいという指示があった。私の家族はどうしても一人が列からはみ出してしまうので、いちおう双子の姉という立場だった私は、子どもながらに空気を読んで、母親とは手を繋がず、母と妹が手を繋いで歩くその後ろをついていくことにした。
最後尾には保育士の先生も控えていたし、母親もただでさえ初めての行事に参加して緊張もあっただろうから、大人しく後ろに下がった私をそのままにしていた。
小さな子どもの頃の記憶なのでその辺りは曖昧なのだが、皆がお母さんと手を繋いで歩くなかで自分だけがあぶれてしまったのを寂しいとか、羨ましいとか、そんな感情はいっさいなかったように思う。
そんなことよりも幼い私の興味を引いたのは、陽射し除けに母親が被っていた麦わら帽子の状態だった。風が少し吹いていたこともあり、母が被っていた麦わら帽子は外れ、首の後ろに回っていた。
帽子についた紐のおかげで飛ばされずに済んではいるが、風が通るたびにユラユラと揺れている。
最初は楽しくその揺れる帽子を眺めて歩いていたのだけれど、皆が並んだ列が橋の中央辺りに差し掛かった辺りで、どうにもその帽子の揺れが激しさを増した気がした。
そう感じた途端、私は気が気でなくなった。少しでも今より強い風が吹いたら、その麦わら帽子が飛んで行ってしまうんじゃないかと心配になったのだ。
だったら早く母親に教えるなりすればいいものを、その当時の私は何を思ったのか、もし帽子が飛ぶような事態になったら、空へ飛んで行く前に自分がキャッチしなければという、よくわからない使命に駆られていた。
どうしてそんな決意をしたのか、自分のことながら今でも謎である。
そして私が恐れていた通り、強い風が突然吹いた。
麦わら帽子は呆気なく空高くへと舞い上がり、さらには橋の欄干を越え、眼下の川面へと流れていった。
その自分の想定していなかったほどの速度で飛んでいった麦わら帽子に、私は自分の無力さに打ちのめされ、また帽子を易々と飛ばしてしまった後悔と共に大泣きした。
私の泣き声があまりにも大きかったものだから、麦わら帽子が飛んで行ったことに気付いた母が、帽子がなくなった事実のほうが飛んでいってしまうほど、驚いたらしい。
いま思い返せば、あれもいい想い出だ。
あの麦わら帽子はどこまで行ったのかな。
幼い私がまた驚いてしまうほどの、想定外な旅の想い出を作っていたりして。
【麦わら帽子】
「本当にいいんでしょうかねぇ」
バスの座席に腰を掛けた老婦人は、ゆっくりと口を開く。
「私だけバスに乗ってしまって。他にもこれに乗りたかった人がいたかもしれないのに」
わたしは彼女の顔を見つめながら首を振る。
「いえ、大丈夫ですよ。それにバスはまた次のがすぐに来ますし」
そうですか、それなら良かったと安心したような表情になった婦人に、わたしは穏やかに語り掛ける。
「どうでしたか、今度の旅は」
「ええ、とても良かったですよ。私には勿体ないくらいの想い出です」
「けれど、ずいぶんとご苦労もなさったのでは?」
「まあ、確かに楽しいばかりではありませんでしたけれど・・・・・・、それも含めて良い旅でした」
「それはそれは。そう言っていただけると、わたしもこのバスに貴方と一緒に乗ったかいがあります。・・・・・・あ、ご婦人。そろそろ到着するみたいですよ」
わたしが気付いたのと同時にバスが停止した。車体のドアが開き、婦人が優雅な所作で立ち上がる。
「では、これで。ここまで送っていただき、ありがとうございました」
婦人がバスを降りる前に、わたしのほうを振り向き丁寧に挨拶をする。
「いえいえ、わたしのほうこそ、ありがとうございました。どうか、良い、死後を。そして、来世を」
わたしが手を上げると、婦人が降り、バスの扉が閉じた。
わたしはわたしと運転手だけになった車内で静かに座席に座りながら、次の乗客を待つことにした。
【終点】
止まらないイライラも。
胸の奥に蟠る不安も。
意味もなく溢れてくる涙も。
上手くいかなくたっていいんだよと。
自分自身にそう言ってあげられたなら。
少しは楽になってくれるのかな。
まだ上手く、自分にそう言ってはあげられないけれど。
【上手くいかなくたっていい】
蝶よ花よと育てた娘は。
本当に花のように愛らしく、美しく育ってくれた。
いつかは蝶のように、自ら選んだ場所へと舞って行ってしまうのだろうけれども。
まだもう少しだけここに留まって。
春のような心地に浸らせてくれないかなと、そんなことを望んでしまう。
【蝶よ花よ】
「最初から決まっていました」
紳士然とした若い男は優雅に微笑むと、傍らに抱えていた大きなバラの花束を片手に持ち直す。
「私の伴侶となるべく人は貴方です」
ゆっくりとした足取りで一人の女性の前に立った若者は、戸惑う彼女の前に堂々と跪く。
「どうか私の妻になっていただけませんか?」
バラの花束を差し出した若い紳士に、相手の女性はおずおずと視線を向け、躊躇いがちに口を開いた。
「あの・・・・・・、私と貴方は今日初めてお会いし、会話をしたばかりです。お付き合いをするくらいならともかく、貴方みたいなお方が私のような者に結婚の約束をするのはいささか早計なのでは・・・・・・?」
若者は俯きかけていた顔をあげ、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「貴方を一目見て、私の心は決まりました。貴方から見れば私の判断はまるで一瞬の出来事のように感じられるでしょうが、ここに至るまで私の頭脳は目まぐるしいほど途方もない演算を繰り返し、そしてようやく辿り着いた結果なのであります」
こうして人類史上稀に見るほどの天才と謳われた資産家は、彼にとっては永遠とも思えるくらいの長い数分を経て、後に語られる一世一代のプロポーズを果たしたのである。
【最初から決まってた】