「貴方の夢を美味しくいただきにあがりました」
シルクハットにモノクル。片手にはお洒落なステッキ。紳士然としたスーツを身に纏ったそいつは、出会ってまず開口一番にそう言った。
は? と俺が間抜けな声を出せば、そいつは不躾にもこちらを指差してニコリと笑う。
「そういう訳ですので、飛び降りるなら、お先にどうぞ。私の食事は貴方が死んでからでも問題ないので」
ぐっと息が詰まる。吹き上がる冷たいビル風が頬に当たった。
「・・・・・・お前、一体何者だよ」
「残念ながら私に名はございません。ただ他者の夢を主食として生きている、そういう存在としてご認識ください」
貼り付いた笑顔が胡散臭い。
あと数歩進めば何もかもを終わらせることができたのに、得体の知れないそいつの予期せぬ登場に、俺はついいらぬ会話をしてしまった。
「俺の夢なんて食ってもうまくない。どうせ取るに足らない夢だ」
「取るに足らないかどうかは、食べてみなければわかりませんよ」
「わかるよ。だって俺の夢だ。身の丈に合わない夢を見続けて、ついには叶えられずに潰えただけの愚かな夢だよ」
気付いたらぎりりと奥歯を噛んでいた。目頭から熱いものが込み上げてきて、いつの間にか頬を滴が濡らしていた。
「私には貴方の気持ちは分かりません」
そいつは静かにそう言った。
「けれど、確かに言えることがあります。私が今まで食べてきたもので美味しくなかった夢など、この世にはまだひとつもないということです」
はっと目を見開いた。俺は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、そいつを見つめる。
「夢を見れるのは生きている者だけの特権ですよ」
そいつはニコリと笑った。さっきの胡散臭い笑みとは違う、どこか優しげな穏やかな口元だった。
「さて、どうしますか? 貴方が何を選ぼうと私の食事に影響はありませんが」
「俺は・・・・・・」
身体の向きをくるりと変えた。黙って俺を見守るそいつに俺は意を決して宣言する。
「生きたい。生きてまだ俺は────」
【夢を見てたい】
ずっとこのままでいたいと、そう考えた時間が何度となくあっても、それは刹那ほどにも短くて、いつも長続きしないことを知っている。
ずっとこのままなのかと、そう思った絶望が何度となくあると、それは途方もなく深い闇のようで、いつか来るはずの夜明けのことまで忘れてしまう。
ずっとこのままでいたいと、そう感じた幸福が一度だってあったなら、それはなんとも素敵な奇跡のようで、いつか顧みた日の私のことを、
──この先ずっと、覚えてる。
【ずっとこのまま】
スマホを空中に向け、カシャッとカメラを鳴らす。
何回も。何回も。それを繰り返す。
ひらひらと舞い落ちる真白な雪を、次々と四角い画面に閉じ込めていく。
儚げなこの雪の美しさを、少しでも手元に残せたら──なんて、そんなたいそうな理由で撮り始めた訳ではないけれど。
コートの袖口から覗いた指先が、痛いくらいに冷たくて。
麻痺したような感覚が、じんわりと熱を持つほどだったから。
その熱につい浮かされて、いま目の前に積もる冬の光景を、変わらぬままに捕らえてみたくなったのかもしれない。
【寒さが身に染みて】
ふと後ろを振り返れば、踏み固められた道が地平線の先まで長く伸びていた。
そこにくっきりとついた幾つもの足跡は、自分のこれまでの確固たる軌跡である。
最初の一歩を刻んだあの日からなかなか遠くへ来たものだなとそう呑気に思いを馳せれば、前方にはまだまだ果ての見えない景色が続いていたんだということを思い出す。
後ろへやった視線をそのままに、空へと片腕を突き出せば、大きく肘を曲げて手を振るう。
大人になったばかりの20歳の自分が、瞳をキラキラと輝かせ、今よりもっと力強く地面を踏みならし、前へ前へと進んでいた。
きっと希望に溢れた彼の真っ直ぐな道筋に、ちょっとだけ横道に逸れてしまった自分の姿は、少々影になって見えなくなっているだろう。
それでもこうして手を振るう。
ありがとう。ありがとう。
君がそうして進んでくれたから、今の自分はここにいる。
君が真っ直ぐに進んで来てくれたから、ちょっとした遠回りくらい、何てことないと思えるんだ。
ありがとう。ありがとう。
いつか君も今の自分と同じ場所で、いつかの君に手を振るうだろう。
いつかの君に手を振るう君の背に、今度はいつかの自分が手を振るうから。
【20歳】
鏡の中に映る自分の顔は、どれも理想とは程遠い。
目も鼻も口も耳も輪郭さえも、全てのパーツに何かが欠けている。
才能も特技もこれといってなく、話上手でもなければ愛嬌すらも振り撒けない。
集団に入っては居場所を作れず、何となく馴染めずに時を過ごす。
なんてダメな欠陥品。
いつまで経っても、欠けてるばかり。
けれど。それでも。
丸く大きな満月の、輝かしい黄金には遠く及ばなくても。
「今夜の月が一番綺麗ですね」
細く鋭利な三日月の、
ささやかなる月明かりの下。
そんな優しい声が聞こえる夜に、
私はいつか出会うのだと、
今夜も夢を見続け眠りに就く。
【三日月】