最初から決まってた
葉巻を吹かしている。薄くにじんだ煙が部屋を満たしている。知らない人が目にしたら火事じゃないかと吃驚するかもしれない。
ふと、なぜ私は葉巻なぞ嗜んでいるのだろうと思った。紙煙草のほうが余程かんたんだ。父も祖父母も愛飲していた。母が吸っているところは一度もみたことがなかった。顔の形が記憶の中ではっきりしないほど久しく逢っていない愚弟は、いつの日からかシーシャ屋に通っているらしい。
嗜好は千差万別。何を好もうが個人の勝手で、そこに決められたルールなどない。それは今生きる社会の上では、実に素晴らしいことのように思えた。私は、すっかり鈍くなった舌を酒で濡らしてから、再び葉巻を手に取った。
つまらないことでも
「みろよあれ、『明けの明星』ってやつだ」
「『明け』じゃなくて『宵』ね。ほら、さっさと帰るよ」
ちがいがわからん、などと頭の悪い発言が背中から聞こえる。今さら驚くことじゃない。こいつのアホさはよく知っている。歩き出すわたしの後ろをパタパタとだらしない足音がついてくる。窓から射す夕焼けが白い廊下を赤く染め、斜めに引き伸ばされたひょろ長い影が床から壁へまたがっている。前を歩くわたしよりも、後ろを歩くアイツの影の方が長かった。わたしの一歩分は、アイツの半歩だった。昔から一緒にいるから些細な違いなんて気づけないけど、いつの間にかこれほどの差が生まれている。過ごす時間だって少しずつ減っている。お互いの領域が日々と共にずれていく。当たり前のことを受け入れるのがこれほど難しいと、幼いわたしは知らなかった。アホはどっちだ。わたしはどんな些細なことでも、すべての一瞬を取りこぼしたくなかった。なんて頭の悪い願いごとだろう。
目が覚めるまでに
何度も何度も口に出したのに、もうその名前を思い出せずにいる。覚醒しだす脳みそを心で押さえつけながら、貴方の名前を忘れてしまわないように、必死の思いで手を伸ばした。だけれど今の私に残っているのは、もがいた後の腕の疲労と渇いた喉だけだった。確かに出逢ったはずなのに、その記憶さえも朝靄と共に消えていく。夜になればまた出逢えるはずだと蜘蛛の糸のように希望へ縋る。私にはもう、夢を見ることしか残されていなかった。