僕と一緒に
弟は家での一人称は「僕」だ。
どこでもそうなんだろうと思っていた。
大人になって友達と電話をしている弟の一人称が「俺」だったことにひどく驚いた。
絶句というレベルにちがいなかった。
「外では俺なの?」と聞くと
「そうだよ。」と気まずそうにするわけでもなく普通に答えた。
「キャラちがうやん」と思わず言ってしまった。
それから一人称を気にするようになった。
私自身も振り返れば、家では「うち」、外では「私」と呼び分けている。
そう考えると不思議はないのかもしれない。
一人称をどう使い分けているか考えてみると、私の場合は親密さの感じ方だと思う。
職場の親しい先輩に「私も」というべきところをつい興奮して「うちも!」なんて言ってしまうと気まずくて頬を染めてしまう。
敬語を使うべきところを間違えたときと似ている。
男性の場合に「僕」「俺」に加えて「自分」がある。
元カレの一人称が初期のころ「自分」だったときに、よそよそしさを感じたものだ。
なんだか、殻でおおって本音を隠して接されているように感じた
僕と俺の間くらいにあたる一人称だから使い安かったんだと思う。
英語だと「I」で済んでしまうのだから楽で羨ましい。
cloudy
曇り空
明日の運動会は晴れるかな?雨かな?
虹の架け橋🌈
世界陸上2025を見ていると
ゆずの栄光の架橋のメロディが流れてくる。
アテネオリンピックだっけか?
私が小学生の頃だ。
高橋尚子がマラソンで金メダルを取って
持久走が得意だった私はクラスメイトに告白された。
「俺とお前が結婚したら、
俺は空手の世界チャンピオンになるから、
お前はマラソンランナーになれ」と。
足が早いのが認められたようで嬉しくて
私は中学では陸上部に入った。
その男子は結局、空手をやめて野球をした。
途中から陸上部に転部して、砲丸をしていた気がする。
告白までしたくせに、同じ陸上部ではほとんど話すことはなかった。
栄光の架橋の歌詞が好きだ。
誰にも見せない涙があった
人知れず流した涙があった
決して見せない涙があった
けれど確かに歩んできた道だ
もうダメだと全てが嫌になって
逃げ出そうとしたときも
思い出せばこうして沢山の支えの中で歩んできた
悲しみや苦しみの先に
それぞれの光がある
だからもう迷わずに進めばいい
栄光の架橋へと
変わらないこの先へと
君の心へ続く架け橋へと
多分、不正確な歌詞だけど、
大きな舞台に立つまでの道のりを想像させてくれる。
勇気を与えてくれる。
心が震える選手の気持ちが胸いっぱいに感じられて、沢山応援したくなる。
名曲だなと思う。
既読がつかないメッセージ
マッチングアプリで初めてあった素敵な人は1回目のお茶のあとに既読がつかなくなった。
その彼とは5年後に別のお見合いで再会し、トントン拍子でうまく進んでいたのに、5年前にお会いしたという話をした途端、再び音信不通になった。
不思議だわ。
秋色
最近は、夕方になると涼しくなってくるよね。
我が家は私の寝室のエアコンが壊れて、夏場はリビングで寝ていた。
やっぱり自室のベッドより固くて、狭くて、さらに暑さも余って寝にくかった。
だからか、夏はずっとイライラしていた。
ここのところ、自室の窓を開け放して寝るとよく眠れた。
快眠の時期だよね。