遠くから聞こえるお囃子の音
浴衣を着付ける祖母の優しい手
母親の急かす声
下駄を転がして歩いているうちに
空がだんだん赤らんでくるのが見える
夜の帷が降りて
提灯の灯りが濃くなってくる時刻
大きな鳥居を抜けると
喧騒に混じって火薬の匂いが鼻を突いた
弾かれたように母親と繋いでいた手を解いて
境内の裏へと駆け出す
境内の裏は表通りとは打って変わって人気はなく
巨大な御神木だけが佇んでいる
ふと視線を感じて見上げると
御神木の一番下の太い木の枝に
狐の面をした女の子が立っていた
ぶわ、と吹いた風が
遅い、と言っているみたいだった
濃紺の空にはもう星が瞬いている
[お祭り]#70
「神はそんなことは言わぬ」
茹だるように暑く、青空と入道雲が眩しい8月。
涼しさを求めて入った林の奥で、私はポカンと口を開けて立ち尽くしていた。
「え……でもさっき、急に出て来たと思ったら願いをなんでも叶えてあげるよってやたら神々しい神様が」
「神はなんでも叶えることはできぬ。そしてアレは悪霊の一種。人から奪いこそすれ、与えることはできぬぞ」
「悪霊…!」
騙された事実と信じてしまった自分の愚かさに、思わず口元を手で押さえた。
空から舞い降りてきたその人は、長い黒髪に獣の耳を生やして、着ているものは着物風で薄汚れている。壊れかけの石造りの社の屋根を愛おしそうに撫で、チラリと私を見た。
「おぬし、随分と異形の者に好かれとるの」
「はぁ……まぁ、好かれやすいのは確かみたいですね」
「因みに何を願ったのじゃ」
「大阪王将が家の近くに出来ますようにって」
「おおさか…なんじゃて?」
「大阪王将」
「……まぁよい。この辺りは信心も廃れ、異形の者が住みつきやすい。早く去ね小娘」
そう言われて嫌だと駄々を捏ねるほど、命知らずではない。今までの経験上、こういったこの世のものでないものに逆らって良かった試しがない。
「分かりました。……あの、国道へはどうやって出れます?」
「なんじゃおぬし、迷子なのか」
「はい」
「大阪なんとやらよりも其方を願うべきであろう」
「へへっ!」
道を教えてもらってそそくさと退散すると、迷っていたのが嘘のようにすぐ国道に出ることが出来た。
ようやく帰路に着くことができる。
「あれ?」
林の目の前の空き地に、いつの間にか売地の看板が立っていた。新しい家でも建つんかな。
[神様が舞い降りてきて、こう言った。]#59
籠の中は
これ以上ないくらい快適なのに
それでも飛び出してみたくなる
「新しい世界を知りたい」
そういえば聞こえはいいけれど
結果論で言うならば
「私は絶望も知りたい」
これが適切だろう
外の世界が危険に溢れてることも
汚い人間関係があることも
星が宇宙では宝石の様に瞬かないことも
「知りたい」とのたまう
皆愚かなのだ
自分の望まないものが
籠の外に在ったとき
初めて籠を欲して振り返る
籠は遥か高い場所に聳え立ち
そこまで飛んでいく翼を
自分は持ち合わせてないと云うのに
[鳥かご]#40
バックムーン
今日の私は一段と貴方が欲しい
少し歪な丸を煌々と輝かせて
私の部屋の窓辺に降り立つ
反射した光が
隣の家の味気ない屋根を
まるで海の水面と錯覚させる
強い風に吹かれて流れてくる黒雲は
貴方を時々遮って
煩わしいはずなのに
この強い風音さえも情緒的で
私の心をぎゅっと締め付ける
貴方の光に包まれたなら
私は静かに目を閉じて
心躍る高揚感に吐息をつく
この時間この瞬間
私は世界一幸せになれる
たとえこの光が
貴方自身の光でないとしても
[今一番欲しいもの]#29
夏が嫌い。
私から全部奪っていくから。
「名前教えてよ」
聞かれて答える名前は大体決まっている。
「リコ」
「ミオ」
「アンリ」
私に興味がない人は「いい名前だね」と言うし
私を知りたい人は「どう書くの?」と言う。
わかるでしょ?本当の名前じゃないの。
私がどんなに美しい名前だったとしても
相手には関係ない。
私にも、関係ない。
「これ、お前の?」
あのときハンカチを拾ってくれたあなたは
きっと覚えてないだろうな。
全部、あなたが好きだと言っていた季節から
とった名前だよ。
あなたを忘れた日なんて1日たりともなかった。
「ハル」
そう言って私を呼んでくれたことも。
好きな季節が春だと教えてくれたことも。
全部夢だったかのように
遠い夏の夜空が全部持っていっちゃった。
あなたも、思い出も、愛しさも。
ああ、だから夏は嫌い。
[私の名前]#19