お題:忘れられない、いつまでも。
汗の滲むような気温になると、とたんに恋しくなるものがある。
平日の昼休み。ぴったり肌にまとわりつくような湿気の中を突き進んでたどり着いたのはコンビニだ。ドアが開き、冷房で冷やされた空気と軽快なメロディが私を出迎えてくれる。店頭で宣伝される商品に目もくれず、一目散に店の奥の棚へと向かった。
今年はあれはあるだろうか。夏が終わって秋になっても冬になっても春になっても、いつまで経っても忘れられないもの。
目を皿のようにして探すこと数十秒、探し求めていたものを見つけた私は、素早く手を伸ばした。商品名をきちんと確認し、高らかに掲げたい気持ちを押さえながら両手できちんと持つ。
蒸し鶏とオクラの入ったパスタサラダ。私の大好きなパスタサラダ。
初めてこれを食べた時の衝撃は凄まじかった。暑い夏にぴったりのオクラのねばねば、そして体中の不足の穴をすべて埋めるほど満たしてくれるだしの美味しさ。「うっっま」と思わず口にしてしまうほどだった。
思い出しただけで口の端からよだれが垂れそうになる。一年越しの再会は感慨深い。
でもまだ油断はできない。お会計を終えない限り、このパスタサラダはまだ完全に私のものになってはいないのだ。
スキップしそうになる足をゆっくり地面に下ろしながらレジに向かい、お金を払う。「ありがとうございましたー」と店員の声を背に受けながら、パスタサラダを入れた袋を手に職場へと戻る。外は相変わらずじめじめしてるけど、満たされた気分の今の私には気にならなかった。
きっと夏が終わったらまたこのパスタサラダとしばしの別れとなるだろう。それでも私はいつまでも忘れられず、また汗をかく時期になればこのパスタサラダを求めてコンビニに訪れるようになるはずだ。
お題:小さな命
日曜日の午後二時、麗らかな日差しが降り注ぐ公園には可愛いが充満してる。私はそれを吸っていた。妖怪だからではなく、私にとって可愛いとは癒しに等しいからだ。くたびれた私には圧倒的に癒しが足りない。
ベンチに座ってるだけであらゆる可愛いものが目に飛び込んでくる。よちよち歩きの赤ちゃん、はしゃぐ幼児、走り回る犬。酸素と一緒にあふれんばかりの可愛いエネルギーを吸い込み、疲れをはじめとした不純物だけ排出するよう細く息を吐き出す。
「可愛い。小さな命がいっぱいいるなあ」
「それなら俺様も小さな命だろ」
「あんたパグなのに喋ってんでしょうが。小さな命はこんな流暢に喋らないの」
私の隣の、地面でなくベンチでお座りするパグを横目で見る。地面に直接座るのは嫌いだと言ってたパグは、見た目以外は人間じみていた。外見だけはどこからどう見てもパグでしかない。
人の言葉を操る奇妙なパグと出会ったのはずいぶん前のことだ。最初は、私もSF映画みたいに宇宙人をやっつけるエージェントに任命されるのかと思ったけど、宇宙人が現れる気配はこれっぽっちもないまま時間は流れていった。今では慣れたあまり、うっかり人前で話しかけそうになるほどこのパグは私の日常に馴染んでいる。
思考が人間に近いパグでも毎日の外出は欠かせないらしい。「人間も太陽の光を浴びないと調子悪くなるだろ。それと一緒だ」と主張してたけど、要するに犬の散歩である。
「そもそも小さな命ってなんだ?」
小さな命とは無縁のパグが尋ねてきた。
「犬猫とか赤ちゃんとか、守りたくなるようなちっちゃくて可愛い生き物かな」
「俺様は守りたくならないか?」
「ならない。あんたはいざってとき言葉巧みに人を動かして守らせるでしょ」
パグは大きく頷いたあと「よくわかってんじゃねえか」と舌を出したまま笑った。ムカつくけど、そこそこの期間を一緒に過ごしたからこいつの人柄、もとい犬柄は手に取るようにわかる。
ひとまずあと五分くらいこのベンチで休んでから帰って、家の掃除しなきゃな。空をぼんやり見ながら予定を組み立てていたら、視界に丸いものが乱入してきた。
ボールだ。黄色いボール。ぽーんと山なりに飛んできたボールはこちらめがけて、パグを狙い打つかのように迫ってくる。
「あっぶな」
パグの前に手をかざす。手に弾かれたボールは地面でゆっくりバウンドしたあと、止まった。子どもが遊びに使う軽いビニール製のボールだった。
軽いボールでよかった。ほっとしてるところに、すみませーんと遠くで子どもが叫ぶのが聞こえる。立ち上がってボールを子どものほうへ転がした。
ベンチに座り直すと、なにか言いたくて堪らないという空気が隣から流れ込んでくる。
「今俺様はなにも言わなかったぞ」
「そうだね」
「やっぱり俺様も守りたくなる小さな命だな」
「だからあんたは違うって」
さっきのボールみたいに軽く弾むパグの声が気に食わない。これ以上なにも言われたくなくて、「もう帰るよ」と腰かけたばかりのベンチから私は立ち上がった。
お題:0からの
テスト期間が終わって答案用紙が帰ってきた日、いまだかつて見たことのない数字が書かれた用紙を手に入れた俺は、桃田の前にそれを掲げた。
「見ろよこの見事な赤丸を」
「いや0点じゃねーか。今の台詞100点見せるときに言うやつだろ」
「ここまで清々しいと逆に自慢したくなったんだよ」
「清々しいのはお前の潔さだろ」
桃田が短く息を吐く。桃田は俺と違って地味に成績がいいので、ここでこいつに「お前は何点だった?」と聞いてはいけない。晴れ渡った空のような俺の気分にわざわざ雨を降らすのと同じようなもんだ。
周りでも、テストどうだった? という声がちらほら聞こえてくる。みんなこの白い紙に書かれた数字に一喜一憂してるんだろう。
「0点なら補修間違いなしだな」
「やめろ今の俺に補修の話はするな」
「現実を見ろ」
桃田は無情にも、これから俺に訪れる未来を告げてくる。補修なんて授業とほとんど大差ない。普段の授業ですら右から左に流れてるのに、補修だからといって都合よく頭に留まるわけがない。
「桃田様、一生のお願いが」
「それ先週も聞いたけどな。なんだ」
「勉強を教えていただきたいのですが」
教師が長々と話すより、桃田が教えてくれるほうが何百倍も理解できる。こいつは俺のことをわかってるので、馬鹿な俺でもわかるよう優しく説明してくれるありがたい存在なのだ。
桃田はジト目を向けてくる。俺は負けじと真っ向からその目線を受け止める。どっちも引かずしばらくそのままの状態になっていたが、諦めたように桃田が「しょうがねーな」と言った。
よっしゃと俺は拳を握る。
「0からの逆転劇を見せてやるぜ」
意気込む俺に「まあ頑張れ」と桃田が声をかけた。
お題:バレンタイン
白を基調とした建物内。清潔さ第一を体現する歯医者に俺は来ている。今日は二月十四日。世間はバレンタインのせいか、街の空気はどこか浮わついてた。おまけに天候も調子に乗っているらしく季節外れの陽気だ。太陽も誰かからチョコをもらってやる気を出したんだろうか。
数ヵ月に一度歯医者に来ているが、今日はいつもより人が少ない。なんでだ、と思ったが原因はすぐわかった。
バレンタインと歯医者は相容れない。
甘いものは歯によくない。バレンタインの主役であるチョコレートは甘いものの代表だ。甘いものを食べるイベント当日にわざわざ歯医者に来る奴は少ないんだろう。
残念ながら俺にはチョコをくれる彼女なんていない。歯医者の予約を取ったときもあとからバレンタインだと気づいたくらいで、「まあいいか」なんて思ったくらいだ。急に彼女ができるなどという奇跡が起こるわけもなく、予定通りバレンタイン当日に歯医者に行くという皮肉な展開となった。
いいんだ別に。決して言い聞かせるわけでなく俺は思う。今チョコを楽しんでも年取ってから歯がなくなったら台無しだ。俺は八十歳になっても二十本以上自分の歯を残したい。そのためには一回くらいバレンタインにチョコを食べなくても問題ないんだ。今日バレンタインを満喫してる野郎共はきっと全員虫歯になる。ざまあみろ。
しばらく待っていると名前を呼ばれた。そういえば最近ちょっと歯が痛いんだよなあ。どうやら俺は無意識に歯ぎしりをしてるらしく、今は問題ないが気になるならマウスピースもあると勧められたことがある。たぶんこの歯の痛みは歯ぎしりのせいだろう。歯医者特有の椅子に身体を預け、「最近歯がちょっと痛いんです」と伝える。開けた口を覗き込んだ医者が、「あー、これは」と目の色一つ変えずに告げた。
「虫歯ですねえ」
お題:伝えたい
文字で伝えることは思ったより難しい。
「そこまで考えてなかったんだけどな」
自室でスマホを見た私はつぶやく。そこにはつい先ほど受信したメッセージが映っていた。名前も顔も知らない誰かが、私の書いたものに対して送ってくれた感想だ。
私は趣味でたまに小説を書いている。五分もあれば読めてしまう程度のお手軽な掌編小説。意外と読んでくれる人がいて、まれに匿名メッセージで感想をもらったりもする。
その感想が問題だった。私の意図していたものよりも、壮大なものを感じ取ってしまった読み手がいるらしい。話を書いた私より、そこまで読み取れるあなたのほうが素晴らしいですよ、と言いたくなる。
小説とは、なにを伝えたいかというテーマが大事とよく言われる。でも正直私はそこまで意識していない。趣味で書いてるんだから面白く書けたらいいな、なんて思ってる程度だ。それにテーマを決めたところで読者にちゃんと伝わるとは限らない。書き手ができることは文字を書き連ねて発表するところまでであって、それをどう受け取るかは読者に委ねられている。
伝えるというのは相手がいてはじめて成立することだ。
「とりあえずメッセージ返さないと」
ただ、自分の書いたもので誰かが楽しんでくれるのはとても嬉しい。この気持ちは間違いなく本物だから、それをこの画面の向こうの相手に伝えたい。
「ありがとうございます。嬉しいです……っと」
ボタンをタップして、感謝の気持ちを込めたメッセージを送る。
この気持ちがきちんと届きますように。そう願いながらスマホを見つめた。