エアコンの排気音と、『時計の針』が進む音。ふと我に返って本から顔を上げ、静かだ…と月並みな感想を持つ。窓の外は雪。家の中の自分は、諸々を重ね着してベッドの上、掛け布団をコタツ代わりにしての読書。カラスの鳴き声がして、こんな雪の日なのに彼らは寝ぐらから外へ出掛けているのか、と思う。ああでも、彼らの寝ぐらは、こんなに温かくはないはずだ。こうして静けさを享受するより先には、温かい寝ぐらがなくてはならない。与えられた寝ぐらとこの日々は、当たり前などではない。それを思い知る日が、どうかこの身に訪れませんように──うなされて起き、一寸うたた寝をしていたのだと気づく。相変わらずに、時計の針の進む音がしている。
あの人のことを想うだけで『溢れる気持ち』を透明なグラスにこぼして、待つこと小一時間。
一見ただの透明な液体でしかなかったそれが、どういうわけか、透明な上澄みの部分と、重たくて澱んだ部分の二層になっていて──どうして、いつの間にこんなことになってしまっていたのだろう。
光を通せばきらきらと光る、透明で綺麗な気持ちのまま──この距離のまま、一方的に想うだけでよかったはずなのに。
現状の関係以上を欲しがって、濁らせたくなんかない、なのに知らぬ間にどんどん濁ってしまうこの恋情を。
私は一体、どうしたらいいのだろう?
ベッドの枕元に置かれたぬいぐるみ、その手のひらサイズのゴリラは、一枚のカードを抱えていて。
カードに書かれていたのは、"『Kiss』me "という命令──俺はその指示に従って、ゴリラに口づけをする。
ぶー、とむくれ顔の、彼女のすぐ目の前で。
◇
「もう! そんな説明いらないって、さっきからわたし、そう言ってるのに!」
「いや、でも俺は、」
「っ、もういい! どうせ言ったってわかんない、なら、もうしゃべんない!」
俺の仕事のせいで、旅行がキャンセルになってしまって悪かった、それを謝りたかっただけなのだ。
今回の件は全面的に俺が悪い、彼女が怒るのも当然で、だからこそ、ちゃんと理由を説明した方が、納得してもらえると思ったんだけれど。
なにか、言い方が悪かったらしい……でも、なにが、どこが?
俺は、どうしたらいいんだ?
「……ごめん、わかんなくて。でも、じゃあ……どうしたらいい?」
「そんなの、自分で考えてください」
「本当にわかんないんだ、だから言われた通りにする、なんでも言うこと聞くから」
「っっっ、そーゆーのも、ヤなの! 口聞かない、いまからね!」
そして彼女は本当に、まったく口をきいてくれなくなり……それで少しだけ冷静になった俺は一度出掛けて行って、彼女が好きだと言っていたドーナッツを買って帰った。
まだソファに膝を抱えて座っていた彼女の前、ローテーブルに買ってきたそれらを並べ、コーヒーを淹れ。
それでも彼女は口を尖らせたままで、けれど並べたうちからいくつかを選んで、黙ってそれを平らげた。
よし……とりあえず、俺が横でコーヒーを飲んでいても大丈夫そうだ。
俺も黙ったままコーヒーを飲み、彼女が選んだのと同じドーナッツに手を伸ばしてみる。が、彼女はなにも言わない。
やがて彼女はコーヒーを飲み終わって立ち上がり、ベッドルームへと歩いてゆき。
俺はローテーブルの上を片付けてからそれを追い、すると──例の、"Kiss me "と書かれたカードを持った、ゴリラがいたのだ。
◇
シングルベッドに寝そべる彼女の、枕元に鎮座するぬいぐるみのゴリラの唇に、俺はそっとキスをする。
正直、少し迷った。
どっちにキスするのが正解なんだ? って。
しかし「なんでも言うこと聞く」と彼女に言ったからには、命令には忠実であるべきだ──というか、少しはウケてくれるかもしれない、だから彼女じゃなくて、ゴリラを選んだのだけれど。
「……あんなふうに、説明なんか、されたら……さぁ? まるで、仕事に理解のないオンナだって、言われてるみたい、じゃない……」
やっと……口を開いてくれた。
つまり。ゴリラを選んだのは、正解だった?
「そんなつもりじゃなかったんだ」
「それもわかってる、でもね、こうやって会うのだって久々なのに、さ? なんだかなぁ、って思っちゃった」
彼女が、ゴリラからカードを取り上げ。
ベッドの脇で膝立ちになっている俺を、じいっ、と見つめてくる。
「なんでも言うこと聞く、ってのにも、なんかムカついたんだよねー。大体、こんなカードがないとダメなの? わたしは、この子の後なの?」
っ、しまった。
しっかり、不正解だった。
まぁ、でも。
もらった命令はちゃんと、実行に移さなきゃ……だよ、な?
『1000年先も』
人々は
揺らす心を
歌にする
平安の世の
誰かしら
一人くらいは
思ったのかな?
ぼくの屍を苗床にして
芽生えた植物がどうか
『勿忘草(わすれなぐさ)』
ではありませんように
ぼくは忘れ去られたい
何も遺したくなどない
そう嘯いたぼくの残骸
そのうちの半分ほどの
本音を曝け出すように
勿忘草が咲きこぼれて
けどそれを見たきみが
二人の日々を思い出す
など絶対ないのだから