誰もいない自習室で。突っ伏して寝ている俺の横に、いつの間にか彼女が座っていた。
顔を上げなくたってわかるくらいには、彼女の香りも気配も覚えている、それはお互いにそうで。
が、それ以上距離を縮めることが出来ない、それは俺と彼女が、ヘンなところで似たもの同士なせいだった。
「……ズルい、なあ」
寝ている俺の横で彼女は、そう独り言ち──いやそのセリフ、そっくりそのままお前に返すけどな?
お互いに、相手が決定的なことばをくれるのを待ってる、とか……先に言ったほうが負け? それって、なんのマウント?
狸寝入りを続ける俺の髪に、彼女の指が絡むのを感じる。なんとなくそれにイラついた俺は、咄嗟に彼女の手首を掴んだ。
「わ、びっくりした! 起きてたの?」
「………………」
彼女の問いを無視して、俺は彼女に向かい合うようにして起き上がった。
彼女の手は掴んだまま、その手をじっ、と見つめてみる。
あーあ、イマイチ頭が働かねぇ……ん、待てよ?
俺はいま、寝ぼけてて……例えばこんなことしたって、たぶん許されるんじゃね?
「っ! ちょ、んっ、なに?」
ぐい、と彼女の手を寄せて、その手のひらにキスをして。細く冷たい指先が驚いて引こうとするのを阻止しながら、ついばむようなキスを何度か繰り返し、そして──。
「なっなによ、なんなの、これはっ?」
「えー? えーと……なんだと思う?」
振り解いた手でバシッ、と俺の頭をはたいた彼女が、自習室を出てゆく。
チェッ、なんだよ、そんなにビビんなくたっていいじゃねーか。
俺だって、こんなふうに──誰かになにかを渡したくなったのは、これが初めてだったんだぞ?
◇
少し後で学食に行くと、自分の手のひらをぼんやりと見つめている、彼女がいて──それを見つけた俺は、思わず顔がニヤけそうになった。
フフッ、してやったり……さぁて、こっからだな?
彼女にやった『手のひらの贈り物』──その感想を俺は、どうやって問い詰めてやればいいだろう?
その薄荷色の猫はある日突然やって来て、私の『心の片隅で』暮らし始めたのだ。
ふと自分の心を覗くとそこにいる猫、ほとんどいつも丸くなって眠っている一匹の薄荷色の、その様子を見ると。
あれぇ、いま私がキィキィと怒ったりメソメソと泣いたりしてたのはなんでだっけかなぁ……と急に毒気を抜かれたような感じになる。
本当になんでだろう、あの薄荷色を見つけただけで、呼吸がスウーッと胸の奥から鼻に抜けて、気持ちがとても楽になるのだから、不思議で……ああ、いま起きて、両前足をキューッと伸ばして伸びをしている。
出来たら、もうしばらくウチの子でいてくださいね──と、私はお願いをしてみる。
でも薄荷色の猫は一つ大きなあくびをしてまたくるりと丸くなるばかり、けれど片耳をピクッとこちらに向けてくれたから、たぶん、もうしばらくは大丈夫なんじゃないだろうか。
は〜い、こんばんはっ! 僕は夢魔っち、これまで『君が見た夢』のどっかしらに登場してたんだけど、覚えてる? って覚えてないよね〜、昨日の夢で言うと、君が店員で働いてた、トラブルばっかり起こるレストランのモブ客……ま、それはいいとして?
いやこんなこと、本当は言いたくないんだけど……最近さ〜、君の夢の味、ちょっと変わったよねぇ?
君の夢の常連客としてはさ、毎回程良く絶望してくれる、あの絶望加減が気に入ってて……あ、絶望が僕ら夢魔たちのごはんってこと、でさ、昨日も君の夢の味目当てで来たのにさ、求めてた味と違うんだもんよ。
なんて言うの、機械化されすぎた絶望って言うか、自家製じゃなくなった感じ、仕込みを外注して簡略化しましたーみたいな?
いっつも楽しみにしてたからさ〜、一軒目がイマイチだったときでもさ、二軒目は君の夢、つまりはテッパンの味で、それでその日の辻褄が合うわけよ。
だからさ、とにかく……忘れないでほしいんだ?
君の夢の味のファンがいるってこと、ね?
まぁ体調もあるだろうし、もちろん無理は望んでないから、自分のペースでゆっくり、以前の絶望を思い出してよ。
じゃあ……これからも、応援してます。
君の絶望の味のファンより……って、アハッ、なんだか照れ臭いねっ!
じゃあね!
絶対絶対、また来るからね!
☆☆☆
「……わあ、すごい。ワタシの絶望にも、ファンなんていたんだ。ようし、これからも張り切って絶望するぞ……って、そんなんするかぁボケェ! 人の夢でタダ食いしまくっといてなにほざいてんだ、オマエに食わせる絶望なんかねえ! 閉店ガラガラだ、コンチクショー!」
『星になる』
夜空の星になる日は来ない
見上げる者を持たない星は
光り輝く術(すべ)を知らない
だからわたしは
端(はな)から海へ
ヒトデという名の
海星(うみほし)になる
両の手足と頭があった
前世のことをすべて忘れて
五つの腕で
ゆるくノビして
波に洗われ
捕食されても
再生しつつ
波を漂う
五本の指を
ヒラヒラと振る
いつか
ヒトデになる日のために
キッチンにまで聞こえる『遠い鐘の音』だけでも、夫が居間でなんの番組を観ているのかわかる。手早く蕎麦を茹で上げながら私は、珍しいこともあるものだ、と思った。
素人が出る番組が苦手なのに、なんで? と首を傾げつつ、かけ蕎麦二つを盆に載せて居間へ。番組はやっぱりNHKののど自慢で、テーブルにはこれまた珍しく、夫がテイクアウトしてきた天ぷらの盛り合わせが鎮座しているのだった。
夫はテレビのリモコンから手を離して箸を取り、私も座りながらエプロンを外して手を合わせる。温かいつゆを口に含んでひと息つき、さて最初は竹輪天かしら、なんて思ったところで夫が言った。
「これ、〇〇市だって」
ああ、そういうこと? 画面には、知らない歌を歌う若い子が映っていて、この子は当然、私がこの〇〇市──故郷を後にしてから生まれた子なんだろう。まさか、誰かの孫だったり? いやいやいや。
「知り合いが出たらすごいわよねー。まぁそこまで小さい市じゃないから、さすがにそれは」
あ、この歌は知ってる。蕎麦つゆに浸した竹輪天を齧って顔を上げると、画面の中で、マイクを持ったオッサンが気持ち良さそうに歌っている。
「同世代だな、このオッサン」
自分を棚に上げて夫が言い、私は「そうねー」と軽く同意して、蕎麦をすする。……そう、その通り、このオッサンは私たちと同世代、って言うか同い年で、私の同級生で一応、元カレ……でも10代の頃だし、いやでもなんでわかっちゃったかなぁ、ちゃんと面影あるんだもん、この歌だって一緒に行ったカラオケでよく歌ってたし、あーもう、なんなの今日は!
「このオッサン。もしかして、同級生じゃない?」
「んー……残念ながら、知らないオッサン」
私はなんとなく嘘をつき、そこで鐘がコーン、カーンと二回鳴り。画面の中でオッサンは膝から崩れ落ちてみせ、画面のこちら側のオッサンは「結構上手かったのに」と言いながら私と一緒に蕎麦をすすり、海老天を齧っている。
そして私は、いつの間にオバサンになっちゃったんだろう……まるで妙な時間旅行の中にいるみたい、せっかくの巨大海老天は、なんだか味がよくわからなかったのだった。