すべて失ってしまった。
守るべきものも、夢にまでみた未来も
穏やかだが、確かに暖かく
俺を取り巻いていた何もかもを……。
一筋の光すら届かない暗がりの中では
闇と同化し自らの体すら認識することはできない
何も視えない
何も聞こえない
手を前に伸ばしているのかわからない
歩いて、前へ進めているのかもわからない
闇の中に光はない
すべてを失った絶望の中
けど、けれども……
慈愛に満ちた笑顔
熱く輝かしい友情
色彩で彩られた風景
道標のように浮かぶ
俺の思い出は失ってはいない
それらは俺の体の内側から光を生みだし
暗がりに溶けてしまっていた俺という
どうしようもない人間の輪郭を形作ってくれる
部屋に充満する紅茶の香りに
事務所に入るなり僕は顔をしかめる。
応接室でもある部屋に紅茶がでるのは
決まってあの女がやってきたときだ。
僕はドカリと椅子に腰掛ける。
自然とため息がもれた。
窓から景色を眺めていた僕の雇い主の男は
そんな僕を一瞥して愉快そうに笑う。
「さあ、仕事だ。給料分は働いてもらうからね」
給料分だって?
あの女がもってきたトラブルだ。
間違いなく僕の給料を上回る業務量と
やっかいごとだろう。
僕はもう一度ため息をつくと
テーブルに無造作に置かれた書類に手をのばした。
「いつまで平伏しているのです、駄犬。
敗北など私は許していません」
朦朧とした俺の頭の中に
彼女の凛とした確かな声が響き渡る。
彼女の声に導かれるまま、
俺はおぼつかない足で無意識に立ち上がった。
視界は定まらないが、俺の意志は揺るぎはしない。
俺の愛しい人が勝利を望むのなら、
それ以外の結末などあってはならない。
ここからこそが本番だ。
俺に勝利をもたらす女神の声を愛言葉に
眼前を埋め尽くす敵へ不敵な笑みを浮かべた。
ともに笑い
ともに泣いた
同じ景色を見て感動し、
世界の理不尽に憤る
たとえ私たちが己の信じるもののために袂を分かつても
きっと心の奥底では友達のままだ
みんな俺を置いて行ってしまう。
不衛生な路地裏でお腹を空かせるながら、わずかなパンを分け合った孤児たちも、
命の危機にさらされながらも背中を預け日々を笑いあった戦友たちも、
俺を残して逝ってしまった。
俺はその後ろ姿を見つめることしかできずに、ぽつんと一人たたずんでいる。
「行かないでくれ」
その言葉は彼らの背中に虚しく響く。
彼らの笑顔をまぶたの裏に思い出す秋の雨の日々。
また一人ぼっちになってしまうのではないかと恐ろしく、不安な長い夜を過ごすのだ。