濃霧

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6/5/2025, 12:08:11 PM

【水たまりに映る空】

放課後のグラウンドには、雨上がりの匂いがまだ漂っていた。

制服の裾を気にしながら、優は校舎裏の小道を歩いていた。昨日降った雨のせいで、舗装の悪い道にはいくつもの水たまりが残っていて、そこに映る空は、どこか絵の具で塗ったようにぼやけていた。

「…あれ?優?」

声に振り向くと、そこには茜が立っていた。短く切った髪が水をはじくように光っていて、彼女の制服の袖も少し濡れていた。

「どうしたの、こんなとこで」

「え、いや……。なんとなく」

気まずくなって、優は視線を落とした。足元の水たまりに映る自分の顔は、ひどく歪んでいた。

茜とは、つい先週まで毎日のように話していた。席が隣だったし、帰る方向も同じだったから。けれど、茜が隣のクラスの男子と付き合っているという噂が広まってから、優はなんとなく距離をとるようになっていた。

「ねえ、水たまりってさ、なんか不思議じゃない?」

「不思議?」

「ほら、空が映ってるのに、触ったらすぐ壊れちゃう。綺麗なのに、すごく壊れやすいっていうか……。ちょっと恋みたいじゃない?」

優は少しだけ笑った。
茜はたまに、唐突に詩人みたいなことを言う。

「……誰のこと、好きになったの?」

優が思わず聞いてしまったのは、たぶん、聞きたくなかったからだ。

茜は小さく息を吸って、優の顔をまっすぐ見た。

「優のこと、ずっと好きだったよ」

水たまりがきらりと揺れて、空の映像が壊れた。

「でも、優は何も言ってくれなかったから……あの人と付き合ってみた。でも、やっぱり違った」

優は、何か言おうと口を開いた。でも、言葉が出てこなかった。

茜はにっこり笑って、ポケットから飴玉を取り出して、優に渡した。

「また好きって言ってくれたら、考える。じゃあね」

彼女は軽やかに歩き出す。水たまりを避けながら、でも時々、あえて踏んでいるようにも見えた。

優は手のひらの飴を見つめる。

晴れた空が水たまりに映る頃、今度こそ、まっすぐに伝えようと思った。

6/2/2025, 10:06:32 AM

傘の中の秘密

雨の降らない日は、この街には存在しないのではないか——そんな噂が囁かれるほど、ここ「霧ヶ峰町」には毎日のように雨が降っていた。

午後六時。駅前の喫茶店「雨宿り」に、一人の男が入ってきた。男はずぶ濡れの黒いレインコートを着ており、手には深紅の傘を握っていた。奇妙なのは、その傘だけがまったく濡れていなかったことだ。

店内は薄暗く、スピーカーからは古い音楽が流れている。カウンターの奥から、店主の志乃が静かに顔を上げた。

「いらっしゃいませ。……その傘、どこで?」

男は何も言わず、ゆっくりとカウンター席に腰を下ろした。目元は深く帽子で隠され、表情は伺えない。だが志乃の声には、明らかに驚きと緊張が混じっていた。

「すみません、コーヒーを」

男は低い声でそう言った。
志乃は黙って頷き、コーヒーを淹れはじめる。
しかしその手はわずかに震えていた。

この店には、ある“伝説”がある。

——深紅の傘を持つ人間が現れると、かならず“誰かがいなくなる”。

それが作り話なのか、本当のことなのかはわからない。ただ志乃が知っているのは、10年前、同じようにその傘を持って現れた女がいたこと。そしてその翌朝、彼女の恋人が忽然と姿を消したという事実だった。

「……その傘、どこで手に入れたんですか?」

勇気を振り絞って志乃が訊くと、男は少し笑った。

「これは、“借りた”だけです。ある人から。」

「誰から?」

男はカップに口をつけ、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。その沈黙の間に、喫茶店の外では、風が音を立てて通り過ぎていく。

やがて男は、ふと立ち上がり、傘を逆さに持ち上げて見せた。

「この中を、覗いたことは?」

志乃が固まる。

男が傘の内側を志乃に向けると、そこには信じられないものがあった。

——内側一面に、びっしりと書かれた名前。すべて、過去にこの町から姿を消した人々のものだった。

その一番新しい名前には、見覚えがあった。

「志乃」

志乃は息をのんだ。

「次は、あなたの番のようですね。」

外の雨音が、一瞬止まったような気がした。

6/2/2025, 9:35:02 AM

雨上がり

六月の終わり。
東京の空は、朝から激しい雨が降っていた。

「今日は無理だね」

駅のホームで、彩香がそう呟いたとき、翔太は黙って彼女の傘を見つめていた。二人で使うには少し小さすぎる、それでも距離が近いから悪くなかった——昨日までは。

「ねえ、翔太」
「……ん?」
「私たち、もう会うのやめようか」

雷でも鳴ったかのように、翔太の鼓膜が震えた。

「なんで急に?」
「急じゃないよ。……ずっと考えてた」

彩香の言葉は、雨粒のように冷たかった。
最近、彩香の声には笑いが少なかった。返信も短くなり、会う約束も「また今度」と先延ばしにされた。
それでも、翔太は信じていた。雨が降っても、いつか晴れると。

「……好きな人でもできたの?」
「……そういうのじゃない。そういうのじゃないけど……一緒にいても、もう前みたいに笑えないんだ」

電車が来た。風とともに、二人の間に距離ができた。
翔太は一歩も動けずにいた。

「ありがとうね、今まで」
それだけ言って、彩香は列車に乗り込んだ。

雨は止んでいた。
気づけば、空にはわずかに光が差していた。
でも翔太の胸の中では、まだ土砂降りが続いていた。

彼女の傘の匂い、指先の温もり、笑った横顔。
全部、雨のあとに残された水たまりのように、そこにあった。触れようとすれば、消えてしまう。

雨上がりの空に、虹はかからなかった。
ただ、湿ったアスファルトの匂いだけが、翔太のそばに残った。