濃霧

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傘の中の秘密

雨の降らない日は、この街には存在しないのではないか——そんな噂が囁かれるほど、ここ「霧ヶ峰町」には毎日のように雨が降っていた。

午後六時。駅前の喫茶店「雨宿り」に、一人の男が入ってきた。男はずぶ濡れの黒いレインコートを着ており、手には深紅の傘を握っていた。奇妙なのは、その傘だけがまったく濡れていなかったことだ。

店内は薄暗く、スピーカーからは古い音楽が流れている。カウンターの奥から、店主の志乃が静かに顔を上げた。

「いらっしゃいませ。……その傘、どこで?」

男は何も言わず、ゆっくりとカウンター席に腰を下ろした。目元は深く帽子で隠され、表情は伺えない。だが志乃の声には、明らかに驚きと緊張が混じっていた。

「すみません、コーヒーを」

男は低い声でそう言った。
志乃は黙って頷き、コーヒーを淹れはじめる。
しかしその手はわずかに震えていた。

この店には、ある“伝説”がある。

——深紅の傘を持つ人間が現れると、かならず“誰かがいなくなる”。

それが作り話なのか、本当のことなのかはわからない。ただ志乃が知っているのは、10年前、同じようにその傘を持って現れた女がいたこと。そしてその翌朝、彼女の恋人が忽然と姿を消したという事実だった。

「……その傘、どこで手に入れたんですか?」

勇気を振り絞って志乃が訊くと、男は少し笑った。

「これは、“借りた”だけです。ある人から。」

「誰から?」

男はカップに口をつけ、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。その沈黙の間に、喫茶店の外では、風が音を立てて通り過ぎていく。

やがて男は、ふと立ち上がり、傘を逆さに持ち上げて見せた。

「この中を、覗いたことは?」

志乃が固まる。

男が傘の内側を志乃に向けると、そこには信じられないものがあった。

——内側一面に、びっしりと書かれた名前。すべて、過去にこの町から姿を消した人々のものだった。

その一番新しい名前には、見覚えがあった。

「志乃」

志乃は息をのんだ。

「次は、あなたの番のようですね。」

外の雨音が、一瞬止まったような気がした。

6/2/2025, 10:06:32 AM