『Vampire』
ある古城に一人の吸血鬼とその吸血鬼に仕える人間のメイドがいた。
「ヴィクトリア、丁度良かった。どうかそのままこちらへ来てくれないかい?」
「ご主人様、どうかなさいましたか?」
その吸血鬼は人間に対して非常に友好的で…。
「先程とても怖い悪夢を見たんだ。酷く残酷で恐ろしい、僕にとっては最悪の悪夢を。」
「それは一体どのような内容で?」
紳士的で、涙脆くて、心の底からのお人好しで。
「──僕がヴィクトリアの血を吸っちゃう夢だよ。」
人間を傷付けることを怖がり、自ら人間の血を飲むことを拒むような人物であった。
「僕に血を吸われたヴィクトリアは酷く怯えていて何度も悲鳴を上げていたよ。でも、夢の中の僕はそんなこともお構いなしに君に何度も牙を突き立てて血を吸ったんだ。」
「まあっ、ご主人様が見られた夢の中ではそのようなことがあったのですね。」
「…ヴィクトリア…ごめん、ごめんよ。夢の中とはいえ、僕に唯一歩み寄ってくれた君の血を吸ってしまうなんて…ッ。」
棺桶の中で吸血鬼は上半身を起こし、歩み寄ってきてくれたメイドに対して悲しげな表情を浮かべながら深く頭を下げる。その体はカタカタと震えていた。
「嗚呼ご主人様、どうか顔をお上げになってください。謝らないでください。私はご主人様がそのようなことは決してなさらないと知っております。本当に心優しい方だと分かっておりますから…。」
メイドが棺桶に腰掛ければ、怯えて震えている吸血鬼を抱き寄せる。それから吸血鬼の頭を優しく撫でながら、何度も「大丈夫、大丈夫ですよ。」と静かな声で話し掛けた。
そうすると暫くすれば吸血鬼の震えは収まり、やがてメイドの腕の中でウトウトし始めた。
「…おやすみなさい、ご主人様。今度は良い夢が見られると良いですね。」
「あぁ、ありがとう。君のお陰で、次は本当に良い夢が見られそうだよ。」
そうして吸血鬼が眠りにつけば、メイドは吸血鬼を棺桶の中へ戻して蓋を閉める。その際、メイドは一言こう呟いた。
「ご主人様…エリアーノ様になら血を吸われても全然構いませんのに。」
『夢見るスペースデブリ』
この“芸能界(セカイ)”は“星(スター)達”で溢れている。
大舞台でスポットライトを一身に浴びて感情豊かな演技を繰り広げる役者。笑いの神様に少しでも近付こうと今日も今日とて練り上げてきたネタをお客さんの前で披露するお笑い芸人。真っ直ぐに伸びたランウェイを一瞬にして自分のものにしてしまう美しいモデル。歌とダンスとルックスで人々を虜にするアイドル。
持ち前の能力と積み重ねてきた経験や努力で売れれば売れるほど彼らの魅力は輝きを増していき、やがて人々から“星(スター)”だと称賛されるほどに眩しい存在となっていく。
だが、時にその星(スター)達のあまりの眩しさに嫉妬心や嫌悪感を抱いてしまう者もいる…それはまさしく“今の自分のように”。
「3360番、山村あかり様。この度はドラマ“乙女の涙”のメインヒロインオーディションにご参加いただきありがとうございました。厳正なる審査の結果───。」
“不合格”。その三文字を見た瞬間、両手で握っていたオーディション結果の用紙にくしゃりと酷いしわを作るほど手に力を込めてしまう。
何回目の不合格だろうか。受けたオーディションが100を越えた辺りから数えなくなったから正確な数はもう分からないし分かりたくはない。何故なら今回のオーディションも含めて私が希望した役で合格を貰ったことは1度もない。
自分を追い込むほどの演技練習は毎日欠かさなかった。美容にだって手を抜いてなかったし、審査員や他のライバル達への気遣いだって問題はなかった。
だが、今回のオーディションには既に眩い光を放つ“星(スター)”がいた。世間で知らない人はいない大人気女優のKさんだ。そのオーラと演技力は圧倒的なもので、子役時代から落第続きの私の演技なんてKさんの前ではゴミに等しいとも言えるほど。
例えるならKさんの演技は誰もが知る月や太陽といった偉大な惑星のように輝いていて、反対に私の演技は果てしない宇宙を漂う人工物のスペースデブリ(宇宙ゴミ)のようにちっぽけなものだった。
きっと今回のドラマの主演はKさんになるんだろう。審査員の人達もKさんの演技に惚れ込んでいたのをこの目でしっかり見ていたから。
…やっぱり私は女優に向いていないのだろうか。あんなオーラを放つことは私には一生無理だ。女優の夢なんて諦めてしまおうか。そんなネガティブ思考な言葉が口から溢れそうになる。
だが、ここはぐっと堪えた。いやいや、まだこれからだ。それに先程例えたスペースデブリは成功する可能性を秘めた比喩表現だ。スペースデブリはやがて願いを叶えると噂の流れ星になれるのだから。
私は大きく深呼吸をすると両手に持っていたオーディション結果の用紙を丁寧に畳んで、ズボンのポケットに仕舞い込んだ。そして、次に受けるオーディションを探すのと演技レッスンのコーチに更なる指導を申し込むため、反対のポケットの中からスマホを取り出すのだった。
『桃ジャムのおまじない』
私の祖母はジャム作りの名人だった。祖母の手作りジャムはどれもこれも絶妙な甘さとフルーティーさが最高のハーモニーを奏でていて、スーパーやパン屋で売られているジャムとはまた別格の美味しさがあった。
特に私は祖母が作る“桃ジャム”がお気に入りだった。元々私の大好物が桃だったからという理由もあるが、お気に入りとなった最大の理由は祖母が初めて桃ジャムを作ってくれた時のお茶目な一言が印象に残っているからだと思う。
「この桃ジャムにはね、特別なおまじないをかけてあるんだよ。おばあちゃんの大好きなちぃちゃんがこのジャムを食べたら、たちまち笑顔になるおまじないがね?うふふ。」
祖母のその言葉は確かに現実のものとなった。当時の幼い私が初めて桃ジャムをトーストに塗って一口食べた途端、口いっぱいに広がる大好きな桃の味に幸福感を覚えて笑顔になったものだ。だから、その頃は祖母のかけたおまじないというよりも美味しい桃ジャムの味で笑顔になったのだと考えていた。
だが、今となってあのおまじないの効果は“祖母がいた”からこそあったのだろうと考え直している。何故なら桃ジャムを食べている間、祖母は安らかな瞳で私を見つめながら温かな手で頭を撫でてくれていたから。きっと私はその心地よい祖母のスキンシップにも幸福感を覚えていたからこそ笑顔になれていたのだ。
──現在もう祖母はこの世にはいない。半年前に老衰で亡くなってしまったからだ。
そして、今。私は祖母の家の遺品整理で見つけた桃ジャムのレシピを使い、あの桃ジャムを再現しようと台所で奮闘していた。
桃、砂糖、レモン汁。準備するものは至ってシンプル。桃の皮を剥いて切り分けて鍋に入れ、砂糖とレモン汁と共にグツグツと煮詰める。出来上がれば冷蔵庫で冷やし、後はお好みでトーストやスコーンなどに塗って食べる。たったそれだけだ。もちろん祖母と同じ様におまじないもかけてみた。笑顔になる対象は自分自身になったが。
そんなこんなで何とか桃ジャムを完成させた。初めて作ったにしては焦げもなく上出来だった。事前に準備しておいたトーストに桃ジャムを塗り、早速一口頬張ってみる。
…しかし、どうしたことだろうか。笑顔になるどころか、あまりの懐かしさに思わず涙がポロリポロリと落ちてきてしまう。嗚呼おまじないは失敗のようだ。それに上手に再現出来た筈の桃ジャムも段々としょっぱく感じてきてしまった。
「っ…あのおまじないは、本当におばあちゃんにしか使えない特別なおまじないだったんだね。」
私はもう祖母が亡くなって半年も経つのに、今だにその悲しみと虚しさからは解放されていなかった。だから久しぶりに桃ジャムのおまじないを使って笑顔になれないものかとやってみたのだが、そんな幼稚な考えはあっさりと崩れてしまった。
もう一度祖母に会いたい。また桃ジャムのおまじないをかけてほしい。そう願いながらも実現することはないと分かっている。やはりこればかりは時間が問題を解決してくれるのを待つしかないのだろう。
私は泣きながらも早々にしょっぱいトーストを食べ終えてしまえば、作った桃ジャムを冷蔵庫へしまって後片付けをしていく。その間も私の脳裏には祖母の穏やかな笑顔と頭を撫でてくれたあの優しい手が浮かんでいた。